2024年7月28日日曜日

吉村昭「落日の宴」(1996)

吉村昭「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」(1996)を読む。講談社文庫2005年2刷で読む。これもBOで108円購入した5年積読本。「群像」誌に1994年1月号から95年10月号まで連載。

幕末、ペリー来航に続くプチャーチン提督来航という日本の重大局面で勘定奉行だった川路聖謨(かわじとしあきら 1801-1868)によるギリギリの手探り対露交渉を描いた歴史記録文学。

自分、この人を初代警視総監の川路利良とごっちゃになってた。こっちの川路は薩摩の人。川路聖謨は豊後国日田の内藤家出身で江戸に出てから小普請組の川路家の養子となり、小官吏から幕閣へ大出世した人物。この二人の間にとくに血縁関係はないようだ。

嘉永六年十月に老中阿部正弘の命によりロシア全権プチャーチンのいる長崎へ向けて出立。老齢な筒井政憲と共に、通商交渉と樺太・択捉の国境策定を要求するプチャーチンとの交渉の記録を、吉村昭らしく淡々と事実を列挙するように読ませられる。

江戸へ戻ると幕府はペリーと下田函館開港の交渉。アメリカと日米和親条約。その一方でロシアと誠意をもって交渉してきた川路。アメリカとロシアで異なる対応はできない。
いったん上海へ引き上げたプチャーチンは日本がアメリカの強硬な態度に折れたことを知っている。ならば強引に浦賀へ凸しよう!

プチャーチンと川路は下田で国境交渉を再開。そこまで双方が意見の違いで丁々発止。ロシアもクリミア戦争中で英仏と敵対。早く交渉をまとめたい。
プチャーチンの要求は通商だが、それは日本の国法に反するので絶対に拒否。
そんな押し問答の最中に安政の大地震。津波襲撃で下田も甚大な被害。プチャーチンの艦にも被害。

プチャーチンはディアナ号修理は波風強い下田じゃ無理!と主張。幕府は下田でやれ!→ムリ!という何度も同じやりとり。
で、ロシア側が戸田村がいいというのでそちらに船を回そうとしたら難破。地元住民が懸命に救助。ディアナ号は放棄せざるをえない。で、戸田村で新造艦を作ることに。
そんな状態で日露交渉再開。エトロフは日本で合意したのだが樺太島で国境線を画定するには双方の主張に隔たり。だがそこは棚上げし1855年2月、下田において日露和親条約締結。

とにかくアメリカもロシアもずうずうしいw 条約文にないことは拡大解釈。通商はしないって言ってんだろ!勝手に上陸して寝泊まりするな!女こどもを連れてくるな!教会を建てるな!

乗組員500人連れて勝手に難破してるのにロシア側がどうしてそんな強気になんでも要求できるん?川路も幕府も困惑。何度も何度も飛脚が行き交う。ロシアは本国と緊密な連絡は無理。
プチャーチンをカムチャッカへ、残留士卒をアメリカ船で帰国させ、京都で焼け落ちた禁裏の普請に取り掛かり、すると今度はアメリカからハリスが領事として押しかけてくる。やれやれ。

ハリスが超絶強引で幕府のやり方にイチイチ怒り心頭でやかましく抗議してくる。それが頼んでもないのに勝手にやってきてお願いする立場か!

水戸の斉昭という非常識な論客には「もう口を出さない」と言わせ、一橋家の慶喜を時期将軍に推すつもりだったのだが、紀州の慶福を推す井伊直弼が大老となったことによって川路は閑職である西丸留守居へと左遷。安政の大獄が始まると川路は蟄居。
万延、文久、元治、慶応、と駆け足で激動の幕末史をおさらい。老いによって登城できなくなりお役御免を願い出る。
大政奉還と幕府の崩壊を見届けて、病床の川路は短銃で自決。68歳。

この本、プチャーチンと川路のタフな外交交渉がメイン。その後は淡々と出来事の列挙。読む人によってはそれほど面白いものではないかもしれない。

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