2024年6月21日金曜日

塩野七生「十字軍物語 3 獅子心王リチャード」(2011)

塩野七生「十字軍物語 3 獅子心王リチャード」(2011)を平成31年新潮文庫版で読む。

第3次十字軍(1189-1192)は英国王リチャード獅子心王、フランス国王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が到着する以前、イェルサレム奪還の翌年の1179年のティロス攻防戦が第1戦。かつてアレクサンダー大王も手こずった海に突き出た島。

そしてアッコン攻防戦。サラディンの元に信じられない知らせ。小アジアを進軍するフリードリヒ赤ひげ皇帝が渡河中に落馬し鎧の重さで溺死。まじか。65歳皇帝、年寄りの冷や水。

英国王リチャードはアッコンを目指す途中で、これまで十字軍国家に非協力的だったキプロス島を征服。これは大きな収穫。さらにサラセンの船も拿捕。リチャードは戦う前から大活躍。
キリスト教徒側は初めて軍事作戦の最高司令官として血筋も能力も王としての徳も兼ね備えたリーダーを得た。第3次十字軍はリチャードとサラディンの一騎打ち。

フランドル伯の戦死など犠牲を払いながらアッコンを奪還。アルスーフへの行軍中にサラディン軍の攻撃も確かな戦況把握で撃退。このときアヴェーヌ伯が戦死。
リチャードはヤッファも奪い、あとはイェルサレムを攻めるだけ。サラディンは5失点6失点してもマウンドに立ってる投手の状態。

戦争が得意じゃないフランス王フィリップはリチャードの指揮下でいるのに嫌気がさしてティロスからジェノヴァ船で帰国。
ドイツ騎士を連れて来ていた皇帝代理のオーストリア公も帰国。しかし残されたドイツ騎士たちはチュートン騎士団を結成。

ルジニャンはアモーリー王の娘シビッラの夫だったからイェルサレム王になれた。だがもうシビッラは亡い。今は王女イザベルが王家に近い血筋。そのイザベルがモンフェラート候コラードと結婚。よってコラードがイェルサレム王にふさわしい。よってルジニャンは王位をはく奪。哀れに想ったリチャードはルジニャンをキプロス王につける。ルジニャン朝はヴェネツィアに奪われるまで300年続く。

コラードは王になって1週間で暗殺?展開がカオスすぎる。
20歳イザベルには52歳コラードのつぎに、26歳のシャンパーニュ伯アンリが次の夫として迎えられる。アンリがイェルサレム王となる。

リチャードはガザ、アスカロンも奪う。キプロス、ティロス、アッコン、ヤッファ、これでパレスチナ沿岸はすべて十字軍側が制海権。海上輸送と兵站線も安心。
だが、リチャードは本国で危機。帰国してたフランス王フィリップが、アッコンで戦死したフランドル伯領を奪うわ、末弟ジョンを立ててイングランド王領に侵攻するわの不審な行為。ああ、早く本国に帰りたい。このままでは本国を失った王になってしまう。

イェルサレム攻撃を早いとこやっつけたい。バリアーノ・イベリンがリチャードのアラビア語通訳として側近になりサラディン弟アラディールと何度も和平交渉。しかし、両者ともイェルサレムには強いこだわり。
だが、リチャードはサラディンの弟アラディールと気があう。そして講和が成る(1192年)。

その後、サラディンは55歳で死去(1193年)。本国へ戻る途中にオーストリア公レオポルドに幽閉され行方不明になるハプニングがありつつリチャードは何とか本国へ帰還。獅子心王の名声は本国にも届いていて英雄の凱旋。ジョン王の味方をしていた貴族も帰順。後はフランス王との戦争。奪われた領地もとり返した。だが、胸に受けた矢の傷によって死亡(1199年)。

第4次十字軍(1202-1204)の主役は史上最強で38歳という若さの教皇インノケンティウス3世、サラディンの弟でイスラム勢力の後継者アラディール、そしてヴェネツィア共和国元首のエンリコ・ダンドロ
呼びかけに応じたのはフランス諸侯。これほどの規模で騎士と兵、馬、食料を輸送する船舶を用意できるのはヴェネツィアしかない。ヴェネツィアにとっても国力を総動員。

シャンパーニュ伯ティボーが主力になるはずが急死。よってモンフェラート候ボニファーチョに変更。フランス王フィリップは王領拡大にしか関心なくて参加せず。どういうわけか約束しても参加しない諸侯が多い。もはや第1回十字軍のときの情熱は期待できない。ちゃんと準備したヴェネツィアからすると憤り。もはや金目当て。

ヴェネツィアに集まった騎士たちにダルマツィアのザーラ攻略を提案。それ、もはや十字軍と関係ないやん。さらにヴェネツィア側の意向によりコンスタンティノープルを攻撃。これには参加してた諸侯も何が何だかわからない。ローマ法王も激怒。何やってんの?バカ!
悪名高いラテン帝国が誕生。もうほぼ東ローマ帝国は滅んでる。ヴェネツィアは東地中海海上ネットワークを構築。

第5次十字軍(1218-1221)
リチャードとアラディールの1192年の3年8か月の講和はその後もずっと更新され続け、1211年に最後の更新がされていた。キリスト教徒が平穏にイェルサレムを巡礼できるんだし、もうこれでよくないか?イェルサレム王位継承者を見つけ出すことすらも困難。聖地のキリスト教徒も現状に慣れてしまった。
その間に、少年十字軍の悲劇のようなことも起こる。

インノケンティウス3世が死にホノリウス3世が継ぐ。この法王が危機感。
十字軍を呼びかけようにも、もはやフランス諸侯も自領を守るのに必死。

イェルサレム王ブリエンヌはなんとか第5次十字軍をしつらえてエジプト北部ダミエッタに上陸する。今回は失地回復をめざすジェノヴァが協力。だがイスラム側はもはや戦争する気も起こらない。
賢明なスルタン・アル・カミールが十字軍側に有利な講和条件を出すのに、法王代理ペラーヨ枢機卿がことごとく反対しぶっ潰す。なんだこいつ。結果、第5次もムダな徒労。以後、また8年の講和。

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