2024年6月20日木曜日

塩野七生「十字軍物語 2 イスラムの反撃」(2011)

塩野七生「十字軍物語 2 イスラムの反撃」(2011)を平成31年新潮文庫版で読む。
仲間内で醜い争いに終始し、キリスト教徒の軍隊がキリスト教世界が一団となって攻め込んできていることに気づかなかったイスラム勢力側の本格的な反転攻勢を扱う。

三代目イェルサレム王となったボードワン2世は名門の出というわけでなく他にいないから選ばれた。絶対的な兵力不足と創業第一世代がいない状況で王領を防衛していく使命がのしかかる。

ヤッファからイェルサレムへの巡礼道を守備する兵員が不足。
そこにシャンパーニュ出身のユーグ・ド・パイヤンが名乗り出る。これがテンプル騎士団の始まり。この団体のモットーが「イスラム教徒を見たら即座に殺せ」
そして、アマルフィ商人から発足した医療サービスを提供する聖ヨハネ騎士団も登場。

ボードワン2世が亡くなると相続人メリゼンダの夫・アンジュー伯フルクが王になる。
ジョスラン・ド・コートネーが亡くなり、エデッサ伯領、アンティオキア公領が同時にリーダー不在。
十字軍国家で支持されてなかったフルク王はアンティオキアをビザンチンの属領にしてしまい、さらに求心力を失う。

1144年、エデッサ伯領はモスール太守ゼンギによって奪還され要人は殺され市民は奴隷。半世紀の間キリスト教国だったエデッサを徹底的に破壊し地上から消し去った。

第1次十字軍がクリュニー修道会関係者主導だったのに対し、第2次十字軍はシトー会のベルナールが言葉巧みに働きかけ、フランス国王ルイ7世が十字軍参加を表明。これにより諸侯も参戦。さらにホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝コンラッド3世も説得。

コンラッド軍は小アジアに入るとすぐにトルコ軍の待ち伏せゲリラ攻撃に敗れ負傷。以後は甥のフリードリヒが行軍。
このいきさつでフランス王ルイがビザンチン皇帝を敵視するようになる。実はビザンチン皇帝マヌエルはキリスト世界の皇帝でありながらイスラム世界のトルコと密約。

フランス王とドイツ皇帝がイェルサレムにやって来てるというのに、第1次を大きく下回る戦力。この時代は国王皇帝といえども動員できる兵力は限られていた。諸侯のほうが領地が広かった。
なのに1次十字軍も手をつけなかったダマスカスを攻める。イェルサレム王ボードワン3世は初陣。

しかも中東の酷暑。攻城器を持ってきてないなどのグダグダでやっぱり失敗。なんと戦闘開始から4日で撤退。十字軍VIP貴族の戦死行方不明者は113人。惨憺たる結果。
ヨーロッパでの影響は少なかったが、十字軍国家のキリスト教徒たちは見捨てられたという衝撃。
イスラム側の士気が上がる。アレッポの太守ヌラディンはモスール、そしてダマスカスも手中。次の世代の主役へ。

カイロのファティマ朝滅亡とともに台頭してきたクルド族青年がサラディン。学者のような風貌の青年をとくに何とも思ってなかったヌラディンだったのだが、ヌラディン死後、ダマスカス、アレッポ、モスルからメディナ、メッカ、イエメンまでを支配下。末席大名が将軍になったようなもの。やっとイスラム勢力が一枚岩。

その一方、第2次十字軍の主要キャストだったルイ7世は英国王ヘンリー2世と戦争。ドイツ皇帝コンラッドは北イタリア都市と戦争。ヘンリー2世はトマス・ベケット暗殺の件で教皇から破門。もう十字軍にかまってられない。

一方でイェルサレム王アモーリーは息子ボードワンはらい病。長くない命で絶望。
アモーリー死後、「癩王」と呼ばれた少年王が即位しボードワン4世となる。病を押して銀仮面をつけ戦場へ何度も出る。24年の短い命を燃やす。
アスカロンにいたボードワンはエジプトから北上したサラディン軍をモンジザールで退ける。しかし2年後の戦いではサラディンが雪辱。以後、このふたりの間には休戦協定。

姉のシビッラがまともな夫を持ってくれればよかったのだが、夫のギー・ド・ルジニャンはハンサムなだけの男。亡き夫・モンフェラート候との息子ボードワン5世(6歳)を王につける。後見人はトリポリ伯レーモン3世とバリアーノ・イベリン。(ボードワン5世は1年後に死亡。)
そして暗殺者集団「ハッシシを吸う男たち」を率いる「山の上の老人」ルノー・ド・シャティヨン。メッカ巡礼者を襲撃する強盗。イェルサレムとサラディンのつかの間の平和を脅かす存在。
このへんの十字軍を描いたリドリー・スコット監督の「キングダム・オブ・ヘブン」(2005)はいつか見たい。

1187年3月13日、十字軍時代になって以来、初めてサラディンがダマスカスでイスラム側からの異教徒排斥を高らかに訴えた「聖戦」ジハードを宣言。
十字軍側に心理的打撃を与える第一の目標はイェルサレム。

ガリラヤの「ハッティンの戦い」でサラディン軍4万は、おびき出したイェルサレム1万8千を相手にほぼ計画通りの完勝。
逃げおおせたレーモン3世とバリアーノ・イベリンをのぞいて、国王ギー・ド・ルジニャン以下ほぼすべてのイェルサレム王国幹部と、ルノー・ド・シャティヨンが捕虜となる絶望。
シャティヨンだけはサラディンによって引き立てられその場で斬殺。トルコ人でありながらキリスト教徒だったトルコ兵と、イスラムへの改宗に応じない(応じるわけがない)テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団の騎士も皆殺し。

兵力をすべて決戦につかってしまったイェルサレムは守備のしようがない。アラビア語が堪能なイベリンはサラディンとフランク人救出の直接交渉。ときに脅し。金での解決。サラディンがすごく寛容だったためにフランク人たちは無事脱出。
そして88年間カトリックの都になっていたイェルサレムはふたたびイスラム教の都へ。十字架が掲げられていた岩のドームもイスラム寺院へ改修。

イマームたちの主張に耳を貸さずにサラディンは、コンスタンティヌス大帝が建てた聖墳墓教会には手をつけなかった。おかげでこの教会は今もそのままイェルサレムに残る。
サラディンは1187年だけで十字軍国家をアンティオキアとトリポリとティロスの周辺のみに追い詰めた。あまりに有能過ぎる。

聖都イェルサレムが奪還されたことはヨーロッパには衝撃。今度は自発的に立ち上がる。しかも、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス国王フィリップ2世、イングランドのリチャード獅子心王、というオールスターの第3次十字軍へと続く。

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