2024年3月27日水曜日

久保州子「アルプスの画家 セガンティーニ」(2019)

久保州子「アルプスの画家 セガンティーニ」(2019 論創社)という本があるので読む。以前からセガンティーニに関する伝記読み物的な本を探してた。

ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini 1858-1899)という画家は明治・大正の日本にも早くから伝えられていた。倉敷の大原美術館に「アルプスの真昼」という画が、国立西洋美術館には旧松方コレクションだった「羊の剪毛」という画もある。
だが、ゴッホ、モネ、ミレーといった画家に比べるとあまり知名度がない。クリムトやシーレよりも知られてないかもしれない。

自分もスイスの風景を描いた画家という以外に何も情報がなかった。自分がセガンティーニを初めて知ったのがショルティ&CSOのマーラーNo.5のCDジャケットの絵として。あれはウィーン・ベルヴェデーレ宮にある「悪しき母たち」という有名な絵画。(セガンティーニの死後にユダヤ商人が購入し寄贈)
12世紀スリランカの学僧パンダヴァジャーリの詩集「涅槃」にインスピレーションを受けた象徴主義的な1枚。とはいっても当時の欧州に仏教知識があったわけでなく、ちゃんとした翻訳でもなかったらしい。

オーストリア帝国領内のアルコという村で生まれたジョヴァンニは幼少時から極貧。母は7歳の年に死亡。家族は生活ができず流浪。てか老父アゴスティーノが日々の糧を稼ぐこともできていない。

そして父が大道芸巡業先で死亡。息子は1年父の帰りを待っていたが孤児となる。
オーストリアとプロイセンの戦争によってアルコはイタリア領へ。オーストリア国籍を離脱したのだがイタリア国籍を取得する手続きができずにジョヴァンニは生涯無国籍。

天然痘に感染しミラノ市立マッジョーレ総合病院の隔離病棟へ。そして浮浪児となり少年院。素行不良。
兄と姉がわりと性格が酷い。幼いジョヴァンニの面倒を見るどころか面倒に思う。
ジョヴァンンは読み書きもできず、計算どころか数を数えることもできない。このことは生涯放蕩と借金生活への原因となる?

だがなぜか絵画の才能を発揮。21歳の習作「聖アントニオ教会の聖歌隊席」の段階で天才の所業。
やがてグルビチ画廊で週給を得る画家へ。セガンティーニは、ブレア美術アカデミーで席を並べたカルロ・ブガッティ(ブガッティ家の御曹司)の妹で「ビーチェ」ことルイジア・ブガッティ(高級車ブガッティのエットーレ・ブガッティの叔母にあたる)と結婚するのだが、セガンティーニは無国籍だったので正式な結婚じゃなかった?!

ミレーに倣って写実的な農民画などを書く。25歳のときの「湖を渡るアヴェ・マリア」で国際的な名声。身分証がないのに各地を転々としてスイスに移住。スイスの村々もよそ者に対する目は厳しい。

35歳ぐらいになるとセガンティーニの名前は欧州各地に轟く。空腹だった浮浪児はいつの間にかヨーロッパで最も高額で作品が取引される画家になっていた。その反動で贅沢三昧。いつも借金の手紙。

1900年パリ万博に向けて、シャーフベルクの山小屋で「アルプス三部作」の取りかかっていたとき突然腹痛。健康に自信があったセガンティーニは医者を呼ばなかったのだが、苦痛に七転八倒。医者が呼ばれたときはすでに手遅れ。急性腹膜炎によって死亡。41歳での急逝。

初めてセガンティーニについて詳しく知れた本だった。セガンティーニの絵画がパキっと明るいのは独自の「分割画法」という描画法によるものだということも知った。

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