2024年2月14日水曜日

吉村昭「白い航跡」(1991)

吉村昭「白い航跡」(1991)を講談社文庫(1994)上下巻で読む。
この作家の著作はだいたい幕末明治か昭和の戦争、近代日本に新たな制度をもたらした偉人。その中に近代医学発展に貢献した医家を取り上げたものがいくつかある。この「白い航跡」では海軍軍医総監で東京慈恵会医科大学を創立した高木兼寛(1949-1920)が主人公。

薩摩の大工の子として生れた藤四郎は幼いころから記憶力に優れ勉学に熱心。裕福でもなく貧しくもない家庭。私塾で漢籍を読み剣術を学ぶ。
父の仕事を継ぐよりも医者になれば良い着物を着れて尊敬もされるなあ…と考え、薩摩の漢方医石神良策(この人は後に東京へ出て海軍軍医寮のトップになる)に入門。この人は蘭方医学にも貪欲。藤四郎は高木兼寛と改名。

やがて薩摩藩は京に出兵。戊辰戦争では軍医として従軍し負傷兵の治療。戦火はやがて奥州へ。
会津戦争で若い蘭方医・関寛斎が銃創を負った兵士の肉体を切り開いて道具で弾丸を取り出すのを目撃し驚愕。
さらに、イギリス人医師ウイリスの名声を聞く。命を守るために手足を切断するという話にさらに驚愕。戦場では漢方医は蘭方医に完全敗北。兼寛は蘭方医学と西洋医学を志していく。

戦争で多くの若い命が失われたというのに自分は無事に薩摩に帰還。自分はどうすれば?
兼寛は欧州へ医学を学びに出ることを決意。

この本、明治日本が国家を挙げて近代医学を発展させていく過程も描かれる。当初はオランダ医学だったのが、神格化されたウイリスのイギリス医学、そして東京に医学校を設立するためにはドイツ医学が最適だろうと方針が変化していく。そんな過程も吉村先生は教えてくれる。

兼寛は妻と幼い子どもを日本に残して英国ロンドンへ。明治初年の国費留学生って今の留学とはわけが違う。本物の秀才エリートのみに許された特権。
日本を出発する前に鹿児島の実父の死、恩師で岳父石神の死…。

現地の病院の規模のデカさにびびるも、たちまち病院付属医学校でトップの秀才。もともとウイリス、アンダーソンに師事して英語力があったのもあるけど、他国からも優秀な学生が集まってる医学校で一等を取るなど輝かしい成績。
その間に、母の死、幼い長女の死、義理の父の死。何か呪われてるのか?

そして西南戦争と西郷の死、大久保卿の暗殺。朝鮮、清国と関係悪化。激動の明治。
兼寛が日本に戻ったら、日本の医学はドイツ医学一色。アンダーソン先生は失望し本国へ帰国。
上巻は吉村昭らしく、その人の人生で起こった出来事を調べ上げ、淡々と列挙していく感じ。

だが、下巻から面白くなっていく。それは原因不明の日本風土病「脚気」。
この病気は西欧諸国には存在せず、米食の地域にしかない。特に日本に多く、江戸の昔から身分の差にかかわらず多い。
13代家定、14代家茂、和宮といった将軍家の人にも多い。明治になっても学生や商家の奉公人に多い。そして水兵に多い。脚がむくんでやがて心臓発作で死んでいく…。これは海軍の存続、日本の存続の危機。

脚気は東京のような人口稠密地域で高温多湿期に多いので、細菌による感染症かと疑われた。しかし、海外に寄港してる間は発生しない。水兵に多いのに士官には少ない。これは米食ばかりでたんぱく質が極端に少ないからでは?(まだ栄養学という考えは存在しない)
食事を洋食に変更すればいいのでは?と思いつくも、維新後の人々はまだ肉食に抵抗感。それは費用がかさむと難色。(今の日本政府と行動原理がほとんど変わってないw 人の命に係わるのに)

兼寛は方々にお願いして回る。明治天皇にも拝謁して説明。軍艦を外洋航行させた実証実験により、白米を一部麦飯に替えるなど食事を改良し、脚気患者を大幅に減らす成果を挙げた。
だが陸軍と東大医科は兼寛を攻撃。
臨床を重要視する英国医学を採用した海軍に対し、研究学問に重点を置くドイツ医学を採用した陸軍と東大。
陸軍軍医総監石黒忠悳、その部下森林太郎(鴎外)、東大医科学長大沢謙二らは「脚気の原因は細菌によるもの」と固執。「それは実験で確かめられたもん!」

そして日清戦争。海軍は脚気になる水兵をほとんど無に抑え込んだのに、陸軍は3,944名が脚気で死亡?!兵士1人に1日白米6号を与えていたのに、戦死者よりも病気に倒れた兵士のほうが多いだと?
なのに陸軍医務局は過ちを認めない。「白米こそ至高!」「白米食わせてりゃそれでヨシ!」
兵士の命を預かる現場ではこっそり麦飯を出すなど離反。指示に従わなかったものは責任を追及され辞職。
森鴎外って明治の文学に貢献した偉人だけど、軍医としては偉い地位にいるだけで迷惑。結果として多くの日本兵を消耗させ死なせた。

兼寛は貴族院議員になり予備役。20年奉職した海軍を去る。名医として義弟に任せていた慈恵会病院に顔を出すようになる。息子も英国に留学。出資してた帝国生命と資生堂も経営が順調。充実した人生だった。
だが、叙勲がない。自分よりも下の者に爵位が与えられている。これは、陸軍と東大の自分への妨害と嫌がらせだ。

そして日露戦争がやってくる。海軍は脚気をほぼ根絶したのに対し、陸軍はさらなる惨状。
もう国民も理由はわからなくとも麦飯が脚気を予防するらしいことは誰もがわかってる。寺内正毅陸軍大臣も長年脚気に苦しんでいたのだが麦飯を食べるようになっていた。森林太郎医務局長は未だに病原菌を特定できず顔面蒼白。
脚気の予防法を確立した兼寛は世界的名声。だがやっぱり日本の医学会は兼寛に冷たい。

兼寛の子どもたちは長男を除いてみんな早死に。長女、四男、次女、三男、次男、みんな兼寛より先に亡くなってる。それは絶望。
兼寛の死後、ビタミンBの発見と治療法の確立によって脚気細菌説は棄却。ずっと間違った説に固執していた学者せんせいはまず謝ろっか?(森鴎外は脚気細菌説を信じたまま亡くなった)

オリザニンを発見した鈴木梅太郎のほうが脚気根絶に功績があったように日本では思われているようだ。いや自分も高木兼寛を知らなかった。あまり知られていないのはもしかして東大医科の妨害と陰謀?

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