三河奥殿藩藩主松平乗謨(まつだいらのりかた)が信濃田野口藩に移転してこの地に慶応三年に築城。
そのへんの説明は、以下、教育委員会の立て札による
所在地 佐久市田口3000番地 指定 国指定史跡信州に一万二千石、三河に四千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来百六十年間 三河に本拠を持ち、佐久には陣屋を置いて、領二十二か村の統治をつづけてきたが、11代乗謨になって、幕末激動の状勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864) 三月着工、慶応三年(1867) 竣工、地字名をとって龍岡城と称した。 用地一万余坪は田野口村より、石材木材などは領内より献納、総費用四万円念であった。藩主乗謨は学才識見ともにすぐれ、幕府の陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などの要職につき明治に入っては、佐野常民と共に、赤十字社の前身である博愛社を創設し、 副社長、又賞勲局総裁など歴任した。築城にあたっては、稜堡式等城法を用い、いわゆる五稜郭が成立した。 そしてこれより四年前完成した函館五稜郭址とともに、わが国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。廃藩後明治五年、城はとりこわしとなったが、 さいわい濠と石塁、建物の一部大台所を残している。注 松平乗謨、田口藩最後の藩主で明治初年大給恒(おぎゅうゆずる)と改姓名
城跡がまるまる小学校(廃校)とグラウンドになってた。星型の堀の外側にはプールもあった。ここで学んだ生徒は自慢できる。
隣の公園には小さな資料室もある。写真と古文書などを展示。
五稜郭は上から眺めたい。となると、近くの山の展望台へ行くしかない。
そこへ行く道がわりと悪路。軽トラ1台がやっと通れるような林道。途中にはクマ出没注意の看板があったり、道をふさぐ倒木は車が通行スペースのみ切断してあったりした。徒歩で行くにもクルマで行くにも覚悟が必要。
秋の信州はどこも収穫が終わった田んぼから煙が立ち上ってた。東京では見ない風景と匂い。
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