2023年11月12日日曜日

司馬遼太郎「峠」(昭和43年)

司馬遼太郎「峠」(昭和43年)を新潮文庫上中下巻で読み始めた。
越後長岡藩7万4千石の藩士で家老河井継之助(1827-1868)の「最後のサムライ」としての生きざまを描いた長編。
昭和41年11月から1年半、毎日新聞に連載されたもの。(「竜馬がゆく」完成から半年後に連載開始)

中学時代しか受験日本史をまじめにやらなかった自分は、河井継之助という幕末の人物を、大人になるまで知らなかった。初めて知ったのは司馬遼太郎「王城の護衛者」(講談社文庫)収録の短編「英雄児」(昭和38年)を読んだとき。
当時はまだ幕末史のことを何も知らなかった。戊辰戦争についても何も知らなかった。まして北越戦争についてもまったく知らなかった。

上巻、妻を国元長岡に残して単身江戸へ。古賀謹一郎の久敬舎で書生生活。とはいっても書物を読みふけるだけ。それだと小説としてつまらないので、司馬せんせいは主人公を吉原の女郎の元へ通わせるw
あとは、備中松山の山田方谷を訪ねて師事してもらおうとするも「人物が小さい」と感じたり、京へ上ると謎の女主人(公家)とドキドキなことがあったり、安政の大獄の最中で当局からの監視が厳しい。

そして大政奉還。鳥羽伏見の戦い。福地源一郎、福沢諭吉、外国人商人らと交流。そして長岡に帰ると、世界の中の日本という考えを持って国内情勢に詳しい人材が他にいない長岡藩内で、藩主(牧野忠恭、忠訓親子)から頼られ気に入られ、どんどん出世。

中巻では奉行として遠山の金さんみたいな思い付き司法行政。
さらに様々な改革に着手。藩士たちから恨まれる。結果、ワンマン経営の独裁宰相。眼光鋭く相手を睨む。考えてることがわからず周囲を戸惑わせる。尊敬されもしたが、憎まれもした。

勤王佐幕の吹き荒れる無政府日本。長岡藩は「ヨソはヨソ、ウチはウチ」中立独自路線。
しかしそれでは官軍(東日本の諸藩はこの言葉を嫌う)から睨まれる。長岡藩内でも薩摩長州に恭順したほうがいいのでは?という勢力も強い。
しかしそんなヤツには蟄居を命じる河井。マジ独裁者。

下巻後半になってやっと北越戦争開戦。やっと面白くなってきた。だが、東北や会津、長岡の人にとって、それは今もけっして面白いものではない。
薩摩が粗暴だしほぼ侵略者。城を攻める以前に外交交渉のようなものが何もない。カネを寄越すか兵を出せ!城を明け渡せ!まるでプーチンロシア。長岡の街は燃え、人々が逃げ惑う。

自分は十数年前に山形を旅したとき、山間の古いお寺で90代ぐらいの住職から「昔はもっと僧房がいっぱい立ち並ぶ大きな寺だった。西郷に焼かれた。」と、まるでつい昨日見たことのように話して聞かされた。東北の人々の多くがまだ薩摩を許してない。(西南戦争のときは多くの東北人が復讐のため戦場に参じた)

河井継之助は頑固偏屈なところはあったのだが、なんとか戦争回避のためにがんばってた。小千谷で官軍幹部たちと会見したときは、恥を耐え忍んで嘆願書を官軍総督に渡してもらおう、取りなしてもらおうと必死で食い下がって頭を下げたのに、岩村高俊という若い軍監(なんでしゃしゃり出て来た?というにわか権力者)に阻まれる。
ここが読んでいて言葉を失うほど不快だし最大の同情ポイント。薩長に脅されて従軍させられていた諸藩の藩兵たちも河井に冷たかった。ひたすら気の毒。

小千谷談判を決裂させた岩村高俊(のちに男爵)が現代で言えば開戦の責任者だし戦犯。こいつのせいで多くの命が失われた。
品川弥二郎(長州)も後年「そもそも河井の相手に岩村のような小僧を出したのがまちがいのもとだ」と語った。司馬遼太郎せんせいも岩村を、
「物事の筋道を好み、理屈と正義を愛し、それをまもるためには居丈高になるところがあり、自然、寛容さにとぼしく、なにごとにも高飛車に出てゆく。権力好きの小僧というか、どちらかといえば検察官の性格であったというべきであろう。」
とこき下ろしてる。「検察官の性格」というところに笑った。司馬せんせいはたぶんこいつが大嫌い。兄の岩村通俊(北海道で好き放題やった)も自分は大嫌い。

藩主の牧野忠恭(ただゆき)、牧野忠訓(ただのり)の存在感がまるでない。
あと、河井継之助の妻も愚鈍なだけで何も存在感がない。

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