2023年10月7日土曜日

木村裕主「ムッソリーニの処刑 イタリア・パルティザン秘史」(1992)

木村裕主「ムッソリーニの処刑 イタリア・パルティザン秘史」(1992)という文庫本がそこにあったので読む。
「ムッソリーニを処刑せよ」という題で出版されたものを1995年に講談社文庫化するときに題を改めた。文庫オビに「特集戦後50年」とある。
著者は毎日新聞ローマ特派員、同編集委員を経て、東京外語大講師、外務省、在伊日本大使館などに勤めたイタリアと深いつながりのある人物らしい。

第二次大戦のイタリアというと、ドイツと日本がそれぞれ1945年の5月と8月まで持ちこたえたのに対し、1943年9月に連合国の上陸を許しバドリオ政権が連合国と休戦協定を結んでしまったために、よく、「イタリアは弱い」「次はイタリア抜きで」などと今日まで揶揄される。

だがそれは間違っている。イタリア国民は早い段階でファシズムに見切りをつけ、イタリアの国土と国民を守るために速やかに戦線から離脱し、新たな侵略者ドイツ軍に対し反ナチ・ファシズムで市民が抵抗蜂起し、解放戦争を戦う必要があった。

その結果、イタリア・パルティザン戦死者は35,828名、戦傷者21,168名。ナチ・ファシストへの非協力、テロ活動への報復として無辜の市民9,980名が処刑された。
この本はイタリア市民かく戦えり!という記録。

なにせ相手はあの残虐非道のドイツ軍。イタリア各地で悲惨な出来事。とくにローマ占領軍に対するローマ市民のテロの応酬。
親衛隊33名を殺害したラセッラ事件と、ヒトラーの指示による大量処刑という報復「アルデアティーネの大虐殺」が恐ろしい。どうして今までこれらの事件をまったく知らないままでいたんだろう。どうしてローマのゲシュタポ長官ヘルベルト・カプラーを知らないままでいたんだろう。
(カプラーは終身刑判決だったのだが癌のために入院していた陸軍病院から、獄中結婚した妻アンネリーゼの手引きによって1977年に西ドイツに脱出。身柄引き渡しを拒んだ西ドイツとイタリアの関係を悪化させたが78年に癌で死亡。)

ナチのローマ支配は休戦直後の43年9月8日から連合軍が到着する44年6月4日まで、268日続く。(ローマ以北は45年春までつづく)
ラセッラ事件を起こしたベンティベンガはアルデアティーネの犠牲者から訴えられ収監されるも後に無罪。元ファシストと元パルチザンの衝突は90年代になっても続く。

ドイツ軍に救出されたムッソリーニはガルダ湖畔のサロ共和国(イタリア社会共和国)の首班ではあるがドイツの傀儡。ドゥチェでありながら特に仕事もない失意の日々。
内外にムッソリーニ健在を示したのが43年11月14日のヴェローナでの党大会。ファシスト代表議会でムッソリーニを失脚させた裏切り者の断罪裁判の結果、女婿のチアーノ伯、デボーノ将軍らの処刑が決まる。

ドイツ軍はフィレンツェに脱出し、アメリカ軍司令官マーク・クラークがローマに入ったとき、ローマ在住で後の巨匠監督フェデリコ・フェリーニは24歳。あのときのローマお祭り騒ぎを後々まで忘れない。
ローマを逃れ市民と軍を無政府状態の混乱とドイツの恐怖支配に置き去りにしたヴィットリオ・エマヌエレ3世国王とバドリオ政府首脳にローマ市民は冷たい眼差し。新政府首班に国民解放委員会議長ボノミ、新ローマ市長に反ファシストのパンフィッリ候。ローマ解放でさらに反ナチ抵抗運動はさらに盛り上がる。

ローマ在留日本人たち(外交官、商社員、新聞記者)はドイツ大使館の協力でヴェネツィアへ逃れたのだが、ローマ解放の日、読売新聞の特派員山崎功がただ一人の日本人。車をドイツ軍に奪われ、パルチザンに身ぐるみはがされという散々な目に。

毎日新聞特派員小野七郎の家族は7月にメラーノのホテルに避難。そこにムッソリーニの愛人クラレッタ・ペタッチとその母、妹のペタッチ家と家族ぐるみで親しくなったという。小野とムッソリーニ単独会見は世界的スクープ。大戦末期に日本はムッソリーニを日本に移送する計画だった?!もうムッソリーニはドイツを信頼してなかった?!

ドイツ・イタリアと同盟国だった日本人もパルチザンにとって敵。44年6月、北イタリア山中で駐在海軍武官光延東洋大佐(46)、大倉商事ローマ支店長浅香光郎(57)、三菱商事ローマ支店長牧瀬裕治郎(44)の日本人3名が山岳地帯を通過中にパルチザンに襲撃され、光延は銃撃により死亡。浅香、牧瀬の民間人二人は1週間の拘禁の後にイタリア人運転手とともに銃殺されたらしい…。光延大佐戦死の状況は同行者で奇跡的に生還した山仲補佐官によって伝えられ防衛庁戦史室に保管されている。著者は光延、山仲の未亡人にも会って話を聴いている。
日本人二人が行方不明という時期に同じ現場でパルチザンに車を止められた朝日新聞特派員はすばやく煙草とコーヒーの包みを渡してその場を通してもらい助かったという。小さなことが生死を分ける…。

マルザボットの大虐殺、モンテフィオリーノの戦い、8月11日フィレンツェ解放戦、なにもかも恐ろしい。残虐なドイツ軍に対するパルチザンのテロ、報復に次ぐ報復。双方が相手を人間だと思っていない。残虐行為には残虐で押収。このへんはもっと多くの日本人も知っておくべき。

ついにイタリアのドイツ軍は風前の灯火。親衛隊カール・ヴォルフは連合国への降伏を視野。ボローニャが解放、そしてミラノも蜂起。ムッソリーニらファシスト幹部はパルチザンでなく連合国側に逮捕されたい…。
ソ連の脅威を十分にわかってるチャーチルへの一縷の望み。ムッソリーニは手紙を書く。

1945年4月25日がミラノ解放記念日、つまりイタリア解放記念日。
ファシストと解放委員会が面会。その中にはかつて部下だったカドルナ将軍が敵将としていることにムッソリーニたちはうめく…。無条件降伏を要求。
この時点では連合国側に身柄が引き渡される可能性があった?スペインに亡命する手もあった?だがムッソリーニらはスイスへ脱出するべく制服を脱ぎ、統帥警護のナチ親衛隊将校キスナットとビルツェルに付き添われ20数台の車列で夜ミラノを出発。
逃亡に気づいた解放委員会はムッソリーニ処刑やむなしへと傾く。連合国側でもムッソリーニを捜索。

ペタッチ姉弟とも合流、そして北へ向かうドイツ軍の一団に合流できたのだが、ドンゴ村ムッソでイタリア語のできないドイツ将校がラテン語で教会神父に質問。「何人いる?」
神父がラテン語がわからずw、村の人口3000人と回答。将校はパルチザンが3000人だと思い込み降伏。フィレンツェの貴族の家系からパルチザンに参加していた通称ペドロらによって、ムッソリーニ以下ファシスト幹部全員逮捕。
(統帥と別れて単独別行動だったロドルフォ・グラツィアーニ元帥は、アメリカ軍の特命を背負ったダダリオ大尉に逮捕。戦後まで生き延びる。)

情報はすぐに各地に伝わる。共産党の闘士でムッソリーニ処刑に執念を燃やすヴァレリオ大佐が強引に統帥らの身柄を奪っていく。ペドロ「お前になんの権限があって?」ヴァレリオ「うるさい、俺の方が階級が上だ」

逮捕と処刑の詳しい経緯は戦後四半世紀、伝聞でしか伝わらない。残存ファシスト勢力からの報復を恐れて。だが、70年代になるとパルチザンの生存者がぽつぽつと共産党機関紙などに手記を掲載。
ついに主導者ヴァレリオ大佐こと本名ヴァルテル・アウディシオ元上院議員が死後に手記を出版。ほぼこいつの私怨と激情からの処刑。ムッソリーニとペタッチは匿われていた農家からだまして連れ出され、4月28日にベルモンテ荘の塀の前に立たせて銃殺処刑。

同日、ファシスト党幹部たち、党書記長パヴォリーニ、官房副長官バラク、前ミラノ県知事ガッティ、以下16名をコモ湖に面した広場に並ばせて銃殺処刑。クラレッタ・ペタッチの弟マルチェッロはコモ湖を泳いで逃げようとして射殺。

裁判もなしに処刑したことに当時から批判は多い。民間人で愛人にすぎないクララ・ペタッチまで処刑したのはやりすぎ。英国首相チャーチルも強く非難。この殺害事件を独自に調査していたらしい。

誰がムッソリーニを処刑したのか?はずっと歴史の謎。ヴァレリオ大佐説、ピエトロことミケーレ・モレッティ説。色んな人がいろんな説。
3つのパルチザンネームを持っていたイタリア共産党書記長ルイジ・ロンゴ説もある。この本が書かれた90年代でも謎。
でも、誰が引き金を引いたかは問題じゃない。たぶんイタリア共産党と第52ガリバルディ旅団の将校たちはみんな責任がある。

そして全員の遺体がミラノ・ロレート広場のガソリンスタンドにトラックで運ばれ逆さづりのさらし者。
この日、1945年4月29日のロレート広場にただひとり日本人がいた!在ドイツ日本大使館勤務の石井彪氏(後に在ローマ日本大使館勤務)だ。ベルリンからお米の調達のためにミラノに来ていてパルチザンに包囲されてしまい脱出を試みてドイツ総領事館に行ったついでに群衆のいる広場へ。逆さづりのムッソリーニとクラレッタのふたりのみ写真に収める。(当時のミラノは中国人が多くて日本人はまれ。)
広場ではさらにファシスト幹部が連行され処刑、ナチ将校が射殺という修羅場。そんな場所に近づいちゃいけない。

戦後イタリアの政治家たちの多くが元パルチザン。日本も戦中戦後の歴史は闇だけど、イタリアはもっと血塗られた闇だった。

この本はすごく詳しくて読みやすくて、自分にはとても有益だった。知らないことばかりだった。ページをめくる手が止まらなかったし、何度もページを戻ったり、いろんなことを確認した。同じ著者の「ムッソリーニを逮捕せよ」も探して読もうと思う。

ヒトラーの最期は日本人にもよく知られているけど、ムッソリーニは愛人と逆さづりになったことぐらいしか知られていない。「ムッソリーニ最期の12日間」みたいな映画も必要だなと感じた。

0 件のコメント:

コメントを投稿