須賀敦子「トリエステの坂道」(1995)を読む。平成10年新潮文庫版で読む。
須賀敦子(1929-1998)を読むのは初めて。
「トリエステの坂道」 トリエステ出身のユダヤ詩人サバのゆかりの書店を訊ねて。
「電車道」 街で見かけるルドヴィーコ神父がクロアチア出身の外国人だと知って。
「ヒヤシンスの記憶」 イタリア各地の方言を聴き分けるほどイタリア語に通じるようになった著者。
「雨のなかを走る男たち」 イタリア人は傘を持ってない?!
以下、「キッチンが変わった日」「ガードのむこう側」「マリアの結婚」「セレネッラの咲くころ」「息子の入隊」「重い山仕事のあとみたいに」「あたらしい家」
すべて須賀敦子さんの結婚した旦那さんの家族親類の人々について書かれてる。
須賀敦子さんは上品な老婦人イメージだったので、てっきりイタリア人の旦那さん家族も中流以上なんだろうな…というイメージでいた。それは間違っていた。イタリアも戦後に経済成長が始まるまでは日本と同じようにみんな貧しかった。
夫の兄も妹も、終戦直後の食糧難に病気になってしまい若くして亡くなっていた。貧しいながらに必死で生き抜いた姑と夫ペッピーノ。それら家族の物語はそのまま映画のよう。イタリア版三丁目の夕日かもしれない。外国人である日本人の目から見たイタリアの庶民の戦後を知るうえで重要な一冊。
北イタリアの人々は南イタリアの人と結婚することはなかった?!
オーストリア領からイタリア領になったボルツァーノはオーストリア系住民が多く、ミラノからこの街に左遷された夫の父は馴染めず苦労した?!
歴史や地理の勉強では得られないイタリアを知る本だった。
「ふるえる手」ナタリア・ギンズブルクの想い出。カラヴァッジョ「マッテオの召出し」の想い出。え、教会に飾られてる絵を見るために箱に200リラ入れないと照明が点かないの?数十秒で照明が消えるの?
「古いハスのタネ」日本人が宗教というものに向き合わなければならなかった1995年。宗教、ダンテ、詩作、吉行淳之介を使った授業、…。断片メモ。
須賀さんは1950年代末からイタリアで暮らし始め、1960年にローマからミラノへ移り、61年に結婚し、6年後に夫が亡くなってしまう。しばらくはイタリアで暮らした後、1971年に日本に帰国。大学で講師などをしてイタリア語の翻訳。そして1991年からエッセイが評価され作家活動。しかし、98年には69歳で亡くなる。そんなにも短い間の作家生活だったとは。
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