2023年7月14日金曜日

W.L.シャイラー「第三帝国の興亡」第5巻 ナチ・ドイツの滅亡(1960)

W.L.シャイラー(1904-1993)による「第三帝国の興亡」全5巻(1960)第5巻「ナチ・ドイツの滅亡」を読む。昭和36年井上勇訳版の1977年第15刷で読む。第5巻はナチが占領地で行った残虐行為、ユダヤ人大量殺戮、捕虜の大量処刑など、世にもおぞましい所業悪行の数々。
The Rise and Fall of the Third Reich by William L. Shirer 1960
東方戦線でユダヤ人、スラヴ人、ソ連軍捕虜がどのような悲惨な末路をたどったのかはこれまで多くの映画やドキュメンタリー番組や、小説をふくむ書籍などで、日本人であっても程度の差こそあってもそれなりに知っている。
ヒトラー以下ナチス幹部、ドイツ国民はスラヴ系諸民族は生かしておく価値がないとすら考えていた。(今ロシアがウクライナでやってることがうっかり甘い対処にすら見えてくる。)

占領地は怖ろしいレベルで搾取されていた。国庫はドイツの物。とくにフランスはドイツの戦争を支えるために徹底的に収奪。
ヒトラーはフィンランドを連邦国として併合し、壊滅させたレニングラードをフィンランド領にするつもりだった?!

アウシュヴィッツ収容所の所長の名前がルドルフ・ヘース(Höß)なのだが、日本語表記だと、ナチス副総統で英国に突撃交渉に行って逮捕されたルドルフ・ヘス(Heß)と同じ名前で混乱。

戦後まで一部の狂ったSS将校たちだけが残虐非道行為をしてたって世界は思っていた。違ってた。ユダヤ人たちから奪った金銀財宝、労働力はそのままドイツの財となっていた。屍体も資源として使用して儲けてた。
そしてナチスの医師たちが罪深い。ユダヤ、ロマ、ポーランド、ソ連の捕虜での恐るべき人体実験。読んでいて気分が悪くなる。

西方戦線の捕虜には東方の捕虜よりも手柔らかな処置だったのだが、1944年バルジ反抗でドイツはアメリカ人捕虜71名をベルギー・マルメディー近郊の畑で屠殺した件。サガン収容所を脱走した英国人捕虜50名を捕らえて殺害した件。アメリカ軍による鉄道トンネル爆破作戦に従事した将校2名兵士13名を処刑したドシュトラー将軍(ローマ軍事法廷で死刑)の件。1945年1月にスロバキアに落下傘降下した英米軍事視察団(プレス記者を含む)15名をマウトハウゼン収容所で処刑したカルテンブルンナー将軍(ニュルンベルクで死刑)の件などなど、ナチスは米英に対してもやらかしてる。(証言者が生き残ってたので記録に残った)

ワルシャワ・ゲットー反乱を鎮圧したSS少将ユルゲン・シュトロープ。
ナチの青髭ヴォルフラム・ジーヴェルス。「ベルゼンの野獣」SS大尉ヨゼフ・クラマー。
ブッヘンヴァルト収容所所長の妻イルゼ・コッホは囚人皮膚で家具をつくったことで有名。
名前を挙げきれないほどのナチス悪魔人材がつぎつぎ登場。

1942年5月429日のハイドリヒ暗殺事件に対する報復が20世紀のこととは思われない。まるで信長の比叡山焼き討ち。1331人のチェコ人捕虜の即時死刑。カルロ・ボロメウス教会に立てこもった120名の皆殺し。

そしてマクス・ロシュトック大尉(後にプラハで絞首刑)率いるドイツ保安警察隊がリジッツェ村を壊滅させた件が読んでるだけで怖い。村にいた少年をふくむ172人を即日処刑。鉱山で働いていた19人も後日逮捕処刑。女7名も連行処刑。ラーフェンスブリュークに送られた195名の村の女たちのうち7名はガス室、3名は行方不明、42名は虐待死。信長秀吉時代の話みたい。
とにかくその数字のスケールの大きさが信じられない。多すぎる犠牲者の数で、ひとりひとりの人生と最期をイメージすることが不可能。

1943年7月の連合国軍シチリア上陸、そして国王からムッソリーニはドーチェ解任。ヒトラー激怒するも、バドリオ元帥と国王、政府は連合国側占領地域へ。ドイツ軍に救出されたムッソリーニはすでに廃人。
イタリアの国民は、ドイツ人とちがって、そのようなまちがった野望にひきつけられるには、文明化しすぎていた。イタリア人は、ドイツ人のように、ファシズムを心からうけ入れたことは一度もなかった。過渡的な段階だと心得ていて、ただ単に我慢していただけだった。そして、ムソリーニも、おしまいごろには、そのことを悟ったらしい。
ヒトラーはムソリーニの尻を叩いて激励してファシスト共和政府を用意してやった。しかし、もうヒトラーの操り人形になったムソリーニに何の権限もない。ムソリーニはイタリア国民が二度と彼もファシズムも受け入れないことを悟っていたらしい。

ドイツ国内でも反ヒトラー反ナチの人々がいた。ナチを最も指示したのが学生たちだったのだが、1943年になると熱狂も冷めきって、ミュンヘンでは反ナチ学生デモ。しかし恐怖の人民裁判へ。ハンスとゾフィーのショール兄妹ら「白バラ抵抗運動」の存在を今日まで自分はまったく知らなかった。

そして国防軍側のヒトラー暗殺計画。この本によって詳しい経緯を学んだ。
暗殺を恐れるヒトラーは頻繁に予定を急きょ変更するという手段で対抗。これまでにも多くの暗殺計画を回避していた。

ゲルデラー、オルブリヒト将軍、オシュター大佐、カナリス提督、テュルプナーゲル将軍、フロム将軍、ベック元帥、クルーゲ元帥、ヴイッツレーベン元帥、ロンメル将軍。
西方連合国と即時休戦し、西部ドイツ軍をドイツ国内へ撤退させ、連合国軍のドイツ空爆即時停止。ヒトラーを逮捕し、ドイツ法廷で裁く。ベック、ゲルデラー、労組代表ロイシュナーの指導のもとに、各階層の抵抗勢力で臨時的にドイツ行政権を掌握。東部においては戦争継続。戦線の短縮を目指す。そうすれば、英米軍はヨーロッパのボルシェヴィキ化を防止するために、ドイツといっしょになって、ソ連と戦うだろうと将軍たちは考えていた。

反ヒトラーの暗殺グループがこれだけ多くいてなんで失敗するのか?使用した英国製爆弾はヒトラー搭乗機に乗せたのに爆発しなかったことがある。ガラスのカプセルを壊すことにより流出した酸が細い金属線を腐食させ撃針を解放して雷管を撃つ仕組みで、金属線の大小が爆発に要する時間を左右する仕組み。

東プロイセン・ラシュテンブルク(現ポーランド・ケントシン)でヒトラーと軍首脳との報告会議で、シュタウフェンベルク大佐は爆弾を入れた書類鞄をテーブルの下、ヒトラーの脚から6フィートあたりに置いた。だが、ブランド大佐がテーブルの脚台の向こう側に置き場を変えた。歴史とはそんなちょっとした偶然によって変わる。

ヒトラーは軽傷で生存。反乱側はなぜに電話線を切り、放送局を押さえ、ゲッベルスを逮捕し、ゲシュタポ本部を占拠できなかったのか?現場に信頼できる将校を置けなかったのか?杜撰な計画としかいいようがない。暗殺計画に加担した者たち全ての運命を変えてしまった。

シュタウフェンベルクら4名の将校は逮捕即射殺されたけど、悪名高いローラント・フライスラ―の人民裁判は怖ろしい。ピアノ線絞首刑の様子は映像に撮られて、その日のうちにヒトラーが見物。(裁判の様子を撮影したフィルムはニュルンベルクで試写されたのだが、処刑フィルムはヒトラーの命令で破棄されたらしい。フライスラ―判事は1945年2月3日の米軍の空爆で死亡。)
ゲシュタポは7千人を逮捕。処刑された人は4,980人?!国民的人気のロンメル将軍は自殺を強要される。ドイツって人類史上最悪の地獄。独裁者を増長させた国民の末路。

高校世界史だと連合国軍のノルマンディー上陸作戦の後は、パリ解放、エルベ川での米ソの出会いがあって、ヒトラーが自殺して降伏があって…って程度の知識しかない。
だが実際は、アイゼンハワーの軍は油や弾薬の補給に苦労して、進軍がだんだん遅くなり、やがて手負いのドイツ軍の大反抗。(ヒトラーの癇癪バカ命令でさらに多くのドイツ兵が失われた)

ルールとシュレジェンを失ったことで石炭を失い、それによって鉄を生産できなくなった。これでドイツの敗北は決定的。軍需相シュペーアは総統官邸地下壕でヒトラー、ゲーリング、ヒムラーもろとも毒ガスで殺そうと思ってた?!

あとは「ヒトラー最期の12日間」で見た通り。あの地下壕にいた面々のことがよくわかった。ハンナ・ライチュという女性はテストパイロットだったのか。あの酔っ払い連絡将校みたいな将軍はクレプスとブルクドルフと言う人だったのか。ガソリンを手に入れてきたヒトラーの運転手はエーリヒ・ケンプカと言う人だったのか。しばらくしたらもう一度見ようか。

第三帝国はヒトラーの死後1週間生き延びた。デンマーク国境のフレンスブルクの新司令部からデーニッツはヨードル将軍に無条件降伏文書に署名する全権を与えた。
アイゼンハワーが本営にしていたランスの小学校校舎で5月7日朝2時41分、連合国を代表しウォルター・ベッデル・スミス将軍が署名し、ソ連側証人としてススロパロフ将軍、フランスを代表してスヴェーズ将軍が副署、フリーデブルグ提督とヨードル将軍がドイツ代表として署名しドイツは降伏。5年8か月続いた戦争は終わった。
第一次大戦はカイザーが逃亡した後に人民に選ばれた政府が機能を受け継いだが、1945年春、ドイツにはいかなる水準においても機能は存在しなかった。フレンスブルクのデーニッツ政府は5月23日に解散。

昨年5月からゆっくり読み進めた「第三帝国の興亡」全巻をやっと読み終わった。第5巻はナチスが強制収容所で行った蛮行と、ヒトラー暗殺と反乱計画を知るうえで大いに役立った。ヒトラーもナチスも自分の想ってたより10倍は狂ってた。すごく詳しく知れた。今後もたまにめくって確認したい。次はロシアが消滅するべきだと思う。

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