2023年7月26日水曜日

遠藤周作「死海のほとり」(昭和48年)

遠藤周作「死海のほとり」(昭和48年)を新潮文庫(平成22年25刷)で読む。

ローマからエルサレムへやって来た私。戦争中に東京で共に神学を学んだ戸田はイスラエルで聖書の研究を続けヘブライ語も堪能。イエスの生きた時代のエルサレムとはすっかり違ってしまっている現代のエルサレムをふたりで巡礼。

この戸田という男がもうすでに信仰というものから冷め切っている。まだ40そこそこだというのに、聖書の研究なんかで人生をフイにしたとなげやり。もう誰もイエスのことなど気にしない時代になるさ。
時代は中東戦争の戦時下。もう研究者として日本に戻ることも諦めている。「私」は両親がカトリックだったから幼少時に洗礼を受けたが、戸田は自ら洗礼を受けたはずなのに。

イスラエル各地にキリストの足跡を求めて旅をする。戸田がことごとく聖書とキリストの美しい物語を否定。巡礼者を集めてる場所もたぶん当時と関係ない。

遠藤周作のイエス観は「イエスの生涯」「キリストの誕生」にしっかり描かれてる。奇跡を起こすことなどできず、大工の家に生まれるも大工仕事もできず、病気に苦しむ貧しい人々、見捨てられた人々の側で看病し話を聴き、愛を注ぐことしかできなかったダメな人、生活無能力の果てにゴルゴタの丘で惨めに殺された人…という描き方。

学生時代の私と戸田の回想。あの臭くてずるい神父の助手コバルスキのことを思い出す。ゲルゼンの強制収容所で死んだと聞いている…。
私は戸田に案内されて各地のキブツを訪問。ゲルゼンの生存者からコバルスキについて知っている人がいないか話を聴いて回る。

戦争中の東京の宿舎での神学生生活、イスラエル各地をさまようイエスとその弟子たち、そして現代(1970年前後?)のイスラエル、ナチの強制収容所の極限、キリストの受難劇、それぞれが断片的に交互にバラバラに配置されている。

イエスのだらしなかった弟子たちは、なぜイエスの死後になってから、あれほどシャカリキにイエスの言葉を伝えて回ったのか?キリストの復活とは何だろう。信仰を棄て、教会にも行かなかくなったけど、それでもイエスは私たちにつきまとう。それも遠藤先生のテーマ。
え、洗礼者ヨハネってイナゴ食べてたの?!

自分はキリストの受難をバッハ「マタイ受難曲」からしか知らない。ピラト、カイパ、百卒長らのそれぞれ視点。バラバを許してイエスを死刑にした政治を遠藤先生がわかりやすく味わい深い筆致で教えてくれる。
とても印象深いどっしり重たい余韻。読むべき一冊。

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