2023年6月8日木曜日

沢木耕太郎「深夜特急2 マレー半島・シンガポール」(1986)

引続き沢木耕太郎「深夜特急2 マレー半島・シンガポール」(1986)を1995年新潮文庫版で読む。

第4章「メナムから マレー半島Ⅰ」
作者はガイドも地図も持たずにぷらぷらとバンコクの空港に到着。なんとなくバス停まで歩いてきてしまい両替もしてなくてタイ・バーツもない。いくら26歳のぼんやり青年にしても無計画すぎる。

親切な学生の好意でバンコクでなんとか安宿をみつけるのだが、入れ替わり立ち代わりボーイが「女買わないか?」と何度断ってもしつこく斡旋にくる。
なんとか他に安宿を見つけるのだが、バンコクには香港やマカオでの楽しさが見つけられず、結局ぜんぜん馴染めない。早々に滞在を切り上げ、国際列車でシンガポールを目指すことになる。

第5章「娼婦たちと野郎ども マレー半島Ⅱ」
混雑した列車で6時間とかつらい。座席に座ってたのに、後からやってきた強引なおばさんのせいで嫌な目にあう。座席も失う。(自分も昔ギリシャのローカル線、イタリア航路の港町パトラからアテネへの旅がこんな感じだったことを思い出した。余裕がない状況だと無神経でずうずうしいやつも現れる。)

深夜に到着した駅では寝泊まりする場所も見つからない。親切な地元の青年たちと日タイ親善。なんとか寝る場所を見つける。双方カタコトの英語でのコミュニケーション。ほぼ宇宙人とのやりとり。
なのに各地で色々な人からごはんを奢って貰えてる。よほど人から気に入られる風貌をしていたにちがいない。

親切な人とも出会うのだが、ケチな旅行をしてると金をかすめ取るずる賢い奴らとも出会う。たったの数バーツで日本人旅行者が現地人とやりあうな!とも思う。自分は遠い昔、暑い夏のイタリアで、500mlペットボトルの水を売りにきた黒人に何も考えず500円ぐらい払ってやったことがある。蚤の市で一切値切らず相手の言い値で買ったこともある。普段は50円とか節約するために一駅歩いたりするけど、人生で一度しか会わないやつと値段の交渉とかめんどくさいし。

ペナンでは主人がカタコト日本語を話す面白い安宿を見つける。滞在が伸びる。1階でビール飲みながら女と交渉して2階で寝るという娼婦宿。日本の学校はいつか海外に出る生徒のために、安い宿はそういう目的のためにあると教えるべき。この人はとにかく安い宿を探すので、そんな宿にばかり1人で泊ってる。

ペナンは当時から日本人が多い。で、現地人も日本の企業を批判する。かつての日本も今の中国のように、人件費が安いから東南アジアに工場を建てたけど現地に何も残さなかった。

複合民族都市クアラルンプールにも魅力を感じなかった沢木は、乗り合いタクシーでマラッカへ。子どもたちのサッカーを見たり、映画を見たり。もうすることがなくてシンガポールへ。
バス乗車券が売り切れなので、ちょっと高いけど乗り合いタクシーを利用。(日本も車持ってる失業者は乗り合いタクシーとかやればいいのに。各方面の行き先と値段を書いたマイクロバスとかロシアの駅周辺でよく見た。事故ったときは悲惨だけど。)

第6章「海の向こうに シンガポール」
ジョホールバルからヒッピーを嫌うシンガポールへ入国。沢木は髭剃りで髪も切っていた?
シンガポールにはそれほど安い宿がない。それでも1日8ドルの宿をみつける。日本の通信社特派員の家庭にお邪魔。近くの安いホテルを紹介されるけど15ドル。それでも食事を一緒にすれば安いというのでホテルを移動。しかし…、

香港はあれだけ刺激と興奮があったのに、シンガポールにはそれがまるでない。街にはどこにでもあるものばかりだし、しかもミニチュア。やっぱり早々に切り上げて、次はカルカッタに行こうと決意。
華僑って場所によって違うものらしい。現在の日本人も中国人を嫌うけど、台湾・香港の中国人とは仲良くやってる。改めて気づくものでもないけど。

沢木26歳は詩集を読むのが好き。唐代中期の李賀って、自分はまったく知らなかった。反戦詩で知られる金子光晴のこともほとんど知らなかった。
二葉亭四迷の墓がシンガポールにあることを知らなかった。

文庫版巻末には沢木耕太郎と高倉健との対談(平凡パンチ 1984年1月2・9日)を収録。
高倉健は東映時代にいちばん多い時で年に15本も映画を撮ってたってすごい。

あと、沢木耕太郎は大学を卒業して就職した丸の内に本社のある会社を1日で辞めてた。理由は雨だったからw それすごい。そういえば俳優の佐藤二朗もそんなこと言ってた。

0 件のコメント:

コメントを投稿