三角寛「山窩奇談」という文庫本がそこにあったので読み始めた。1966年に東都書房から刊行されたもの。2014年に初めて河出文庫化されたもの。
オビに「サンカは生きていた!三角寛の古典的作品、初めての文庫化。サンカの実態に最も精通した三角寛の取材記録。」と書いてある。
三角寛(1903-1971)はなんとなく名前は知っていた。著作を読むのは初めて。三角寛といえば山窩、山窩といえば三角寛。
本名は三浦守。大分県出身。1926年に朝日新聞社に入社。(板橋区役所の裏に住んでたらしい)
自分はてっきり学者なんだろうと思ってたのだが、昭和初期に「説教強盗」記事で名をはせた朝日新聞記者だった。え、そうなの?
正直、今になって三角寛を読むことにそれほど価値を見出せないかもしれないが、学術的価値は置いておいて、それでも面白いという人がいるので一度読んでおこうかと。
山窩について詳しい人は刑事だった。三角寛は取材してるうちに親しくなった刑事たちから山窩について知り興味を持ち、警視庁の大塚大索刑事から紹介され、昭和7年11月13日に東京麻布狸穴(ソ連大使館の裏側)に隠遁していた元諜者の国八老人(当時76歳)を探し当て訪ね話を聴いた。
大正時代には既に姿を消していたが、明治の終りごろまでは、警視庁の刑事のもとに諜者というものがあった。つまり、刑事の補助になって犯罪捜査をして役職である。いわば江戸時代に十手をあずかった町同心の手先きであった岡っ引きにあたる者たちである。国八老人は、その諜者をながくつとめて、主として山窩関係の事件を扱った、というより山窩専門の諜者となり、山窩の仲間に入り込んで、彼らと親戚づきあいをして来た老人で、本名を小束国八というところから、「オツカん旦那」といえば、山窩仲間では誰一人知らぬものはない存在であった。私が会った時は、既に引退されていた。
とある。この国八老人の元へ通って聞いたノートをまとめたものがこの本。「蛇崩川の殺人事件」から話始める。老人によれば山窩は間者の子孫だという。
驚いた。まるで実話系三面記事読物。明治東京警視庁捕物帳。思ってたのと違った。
そもそも明治日本の犯罪新聞記事ってこんな感じ。娯楽よみもの色が強い。どこが「奇談」だ。
刑事とその部下、容疑者のやりとりが落語講談。ほぼ浪曲とか歌舞伎のような会話。
鋭利な刃物を使った凶悪殺人事件(山梨、信州を含む)では、東京警視庁はとりあえずサンカを捜査の対象にしてた?!
自分、サンカってなんとなく山の中に住んでる人だと思ってた。この本を読むと、瀬振とかいう天幕小屋を作って住む定住所を持たない人々のこと?(数世代前まで籍がなかった人々のこと?)
池上本門寺の墓地とか、川原に「瀬振ってた」らしい。「瀬振」が何なのかまったくイメージできないのでググったのだが、出てくる情報が三角寛と映画と横浜のリストランテだった。
あと、山刃(うめがい)もなんだかわからずググった。サンカの使う両刃のナイフらしい。
明治の警察の捜査が酷いw 裏付けをとらずにしょっ引いてきて怒鳴りつけて自白させ、あとは供述調書をつじつまが合うように作成する簡単なお仕事。
日本の各県警は平成に至るまで(現在もだが)、刑事はお上(将軍、公儀、天皇陛下)から十手を預かった偉い存在だと自身を誇らしく思っていたらしい。卑しい身分のやつらに対する態度が横柄で酷い。何を勘違いしてるのか身の毛がよだつ。
第18代反正天皇(タジヒノミツハワケ)の「タジヒ」とは「蝮」?反正天皇を蝮天皇と呼んでいた?サンカは蝮を捕獲し飼って漢方薬や強壮剤を作ってた?
この本を読んでも結局サンカが何なのかよくわからなかった。東京西部、多摩川、鎌倉街道に昭和初期までそんな人々がいたのか?
文庫あとがき解説を読んでも、「三角の『サンカ研究』は研究として鵜呑みにできない」と書かれてる。
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