2023年2月22日水曜日

塩野七生「レパントの海戦」(1987)

塩野七生「レパントの海戦」(1987)を新潮文庫(平成10年18刷)で読む。これで「コンスタンティノープルの陥落」「ロードス島攻防記」と読んできた三部作のしめくくり。

無敵のオスマン・トルコに対してついにスペイン王フェリペ2世率いる西欧連合艦隊が立ちふさがる。(コンスタンティノープル陥落から118年)

今回の主人公はキプロスから帰任したアゴスティーノ・バルバリーゴ。東方の情勢をヴェネツィア共和国の元老院に報告。この人が後のヴェネツィア海軍参謀長。国営造船所火災を機にトルコがキプロスを奪いにきていよいよ戦争。1571年の10月。

自分、レパント海戦というとスペイン王フェリペ2世だと暗記していたのだが、この王は特に何もしてなかったw 弟のオーストリア公ドン・ホアンという青白いひ弱そうな男と取り巻きを送ってきた。ヴェネツィア側は早くキプロスへ向かわないと!と焦るのだが、スペインはのらりくらり出航を遅らせようとする。ヴェネツィア海軍の司令官セバスティアーノ・ヴェニエルは激怒。この人、ずっと激怒。これが寄せ集め連合艦隊だ。

敵艦隊と遭遇しいよいよ臨戦態勢というときに、ヴェネツィア船員とスペイン兵士でもめ事。狭い甲板で帆の上げ下げと操船に忙しいのに、ウロウロする暇な兵士ほど邪魔なものはない。ケンカが起こって殺し合い。ヴェニエルはスペイン兵4人を処刑。すると今度はドン・ホアンが激怒。ダメだこりゃ。

しかし、8月にファマゴスタ要塞が陥落していたニュースがやっと届く。命は助けると言っておきながら、開城してみたら籠城軍とヴェネツィア人は老人子どもを含めて全員虐殺。ギリシャ人は奴隷。トルコ軍司令官ムスタファ・パシャは1年間抵抗した現地司令官ブラガディンを全身の皮をはぎ取り海に入れ、最終的に首をはねるという残酷さ。まさに鬼畜の所業。これにはようやくキリスト教国が一致団結。ガレー軍船の漕ぎ手までが怒りに燃える。

1571年10月7日正午、砲音が鳴り戦闘開始。海軍史上、ガレー船同士の海戦としては、最大の規模で戦われ、かつ最後の戦闘となった。そして最後の十字軍。それがレパント海戦。両軍合わせて500隻と17万人が正面から激突。

海戦は西欧神聖同盟軍の圧勝。だがキプロスは奪われる。この時代の航海技術ではトルコ軍を追いかける余裕もなく翌年に持ち越し。
だが、もうヴェネツィアはスペインが信用ならないし頼らない。ケンカ別れ。フランスもイギリスも参加せず。結果、ヴェネツィアはトルコとかなり不利な単独講和。これには西欧世界から非難ごうごう。

駐コンスタンティノープル大使バルバロも本国の決定を、帰任後の元老院で批判演説。
「国家の安定と永続は、軍事力によるものばかりではない。他国がわれわれをどう思っているかの評価と、他国に対する毅然とした態度によることが多いものである。」 
「トルコ人はわれわれヴェネツィアが、結局は妥協に逃げるということを察知していた。それは、われわれの彼らへの態度が、礼をつくすという外交上の必要以上に、卑屈であったからである。ヴェネツィアは、トルコの弱点を指摘することをひかえ、ヴェネツィアの有理を明示することを怠った。」 
「結果として、トルコ人本来の傲慢と尊大と横柄にとどめをかけることができなくなり、彼らを、不合理な情熱に駆ることになってしまったのである。被征服民であり、霞友の役人でしかないギリシャ人にもたせてよこした一片の通知だけでキプロスを獲得できると思わせた一時にいたっては、ヴェネツィア外交の恥を示すものでしかない。」
この老大使の言葉は現代の世界にそのまま当てはまる。キプロスはクリミアだし台湾。オスマントルコはそのままロシアだし中国。
ドイツがヴェネツィアと同じような行動を中国にしないか心配。

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