中公新書1768 志摩園子「物語 バルト三国の歴史」(2004)を読む。
バルト三国といわれても何も知らない。日本で教育を受けた高校生以上の人はエストニア、ラトヴィア、リトアニアと順番に呪文のように覚えているにすぎない。いずれも第一次大戦後に国家として独立し、第2次大戦でソビエト連邦内の共和国のひとつとなり、ソ連解体後に再び独立し、2004年以降はEUとNATOに加盟したということぐらいしか知識がない。
ただ、自分は首都の名前は答えられる。あと、クラシック音楽を長年聴いてきたせいで、エストニアというと指揮者のヤルヴィ親子や作曲家トゥビンは知っていた。
ラトヴィアというと、ヴァイオリン奏者のクレーメル、指揮者のヤンソンス親子、ネルソンスは有名。美術方面だと画家のマーク・ロスコもラトヴィア出身のユダヤ系。
リトアニアは杉原ビザのエピソードとポーランドとの同君連合時代。リトアニアだけは中世以降に地域の大国だったことぐらいしか印象がない。
これまで読んできた中公新書の物語歴史シリーズで一番読むのに苦労した。どの国もあまり独自の強い個性が感じられない。個性的で強い指導者が見当たらない。
バイキングがバルト沿岸に町を作り始める。ドイツ騎士団領と移民、ハンザ自由都市レヴァッル(タリン)、リガ(スウェーデン時代は帝国第2の都市)、大学都市タルトゥ(ドルパト)。
ポーランド、スウェーデンからロシアへ。ざっくりおさらい。そのへんは何度も読まないと覚えられない。
ピョートルやエカテリーナ時代のサンクトペテルブルク宮廷にはバルト・ドイツ人貴族たちが重用されていたとか、まったく知らなかった。
クールラントのミタウ(ラトヴィア名ヤルガヴァ)はかつてルイ16世の弟ルイ18世も革命期に亡命し逗留。
エイゼンシュテイン監督の映画「アレクサンドル・ネフスキー」の「氷上の戦い」はノブゴロド公とドイツ騎士団の戦いだったのか。現在のラトヴィア東部地域がロシアとドイツの衝突する最前線。
ラトヴィアは19世紀ヨーロッパ革命と民族主義以降になってようやく、ラトヴィア語を話す人々の暮らすあたりをラトヴィアと呼ばね?とまとまり出した地域。
リトアニア人も長年ポーランド人と同居し自身をポーランド人だと思っていた?杉原千畝の勤務していたリトアニア総領事館があったのはカウナス。あれ?なぜヴィルニュスじゃないのか?リトアニアが独立した当時のヴィルニュスはポーランド人が多くポーランドに占拠されていたのか。
ちなみに現在のヴィルニュスがリトアニア領なのはソ連のおかげもある。以後、長らくポーランドとリトアニアはヴィルニュスをめぐって関係がギクシャク。
今この本を手に人は、バルト三国とソ連の関係、そして戦後の再独立とNATO加盟を知りたくてという人が大いに違いない。ボルシェビキ戦争以前のバルト三国地域はわりと親ロシアだった。
しかし、ソ連は悪魔の本性を出してくる。モロトフ・リッベントロップ協定でバルト三国のソ連編入が、国民の意志と関係なく決まってた。ソ連はスターリンの昔から、まず些細な事件で抗議し反ソ的だと非難。今のロシアも同じだなと思った。
1970年代のソ連全体の停滞を経て、80年代から民主化と改革の要求が高まる。
自分、近年いろいろな本を読んできて、西側で人気のあったゴルバチョフという人をそれほど評価できなくなってる。
1990年から独立交渉が始まるのだが、91年1月にはリトアニアとラトヴィアでソ連軍とKGBの特殊部隊がテレビ塔や内務省を攻撃。
1991年8月のゴルバチョフが失脚したクーデターでは沿バルト軍管区ソ連軍が非常事態を宣言し街を占拠。クーデターが失敗するとソ連軍は去った。
ラトヴィアは1993年に1922年憲法をそのまま復活。リトアニアは1992年に国民投票で新憲法を採択。エストニアは1922年憲法を土台として手直し。
エストニアもラトヴィアもソ連時代から生活水準が高かった。だが他地域よりも出生率が低いことが悩み。離婚率も高く、都市部の住宅環境が悪かったらしい。
するとそこには多くのロシア人がやってくる。ロシア語を母語とする多くの人々がいたのだが、もともといた人には市民権を与えたけど、第二次大戦以降に移民してきたロシア人たちには市民権も選挙権もなく無国籍という扱いにしていることを初めて知った。
かつて多くのユダヤ人が暮らしてたリトアニアはホロコーストで9割減。多くが海外に移住して1993年の時点で5000人?!
ちなみにこの本が出た2004年当時はNATOの第二次拡大期。ロシアですらNATO準パートナーだった。時代は変わる。
今回この本を読んでバルト海沿岸の町の名前をいくつか覚えた。ちなみに日露戦争のときにバルチック艦隊が出航したのは現ラトヴィアのリャパーヤ(ドイツ名リバウ)。
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