樋口有介「八月の舟」(1990 文芸春秋社)を読む。このころの樋口有介は「ぼくと、ぼくらの夏」「風少女」というミステリー小説と、この「八月の舟」の文芸路線。この表紙と装丁はどう見ても文芸書。
樋口有介は群馬県前橋市出身の団塊の世代作家。窓の外の風景を眺めてぼんやりしていた少年時代を回想するような内容。なので1960年代後半。未成年があたりまえのようにタバコと酒。そういう時代。
母親「あたしは家に帰ってプロレスを見る。今夜はジャイアント馬場が出るからね」昔はテレビのプロレス中継は今と比べられないほど人気の娯楽。そういう時代。
これがもうアメリカ文学、とくにハードボイルド作品を読んでいた人の文体と会話センス。ある意味もうひとりの村上春樹。
「今怪我して入院しています」「そうでしたか」「石に躓いて転びました」「元気が良すぎるんでしょうな。」
こういう会話を日本人はしない。日本人の会話は英米人にとっては「?」なように、英米人の会話をそのまま訳しても日本人は笑ってしまうようなスカした会話。
「俺、学校をやめようと思うんだ」「真面目な話でか?」「真面目な話でさ」「いつ真面目になったんだ?」
自分、高校時代にこんな会話してない。今もしたことない。こういう会話をしてみたかった。
「葉山くんって、変わってるって言われない?」「言われないさ」「でもわたし、変わってると思うわ」「誰の小説?」「サリンジャー」「面白いの?」「葉山くんのほうがずっと面白いわよ」
こういう会話を女の子と教室でしてみたかった。
「ぼくのシャツとか、ズボンとかは?」「洗って干してある」「どうして?」「どうして?覚えていないの?」「覚えていない」「よかったわね。都合の悪いこと、みんな忘れられる性格で」
こういう会話を遊びとして、ごっことして演じられるバーとかないのか?
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