2022年9月1日木曜日

中公新書2456「物語 フィンランドの歴史」(2017)

中公新書2456 石野裕子著「物語 フィンランドの歴史」北欧先進国「バルト海の乙女」の800年(2017)を読む。

フィンランドは高校世界史にほとんど登場しない。何も知識がない。
自分は昔、いちどだけアイスホッケーの国際試合フィンランドVSカザフスタンを見に行ったことがある。ルールを知らないまま。(フィンランドはサッカーW杯本戦に出場したこともない)
あと、民族叙事詩カレワラの簡略版を読んだ。そしてシベリウスの音楽。自分のフィンランドとの関わりと知識はそれぐらい。ムーミンとノキアのことはあまり知らない。
そもそも日本でフィンランドという国がメジャーになり始めたのは1980年代かららしい。

フィンランドという地域的まとまりはスウェーデンの辺境として600年かけて形成。現在のフィンランドは3万年前から1万年前まで氷河におおわれていた。フィンランド人の祖先がどこから来たのか?それは依然不明なまま。以前はアジアから来たとされていたのだが現在では否定されている。DNA鑑定をするとやはり他のヨーロッパ民族とは違うようだ。
19世紀までスウェーデン語が公用語。現在のフィンランドの公用語はフィンランド語(90%)とスウェーデン語(6%)。

8世紀半ばからスウェーデン人はラドガ湖のあたりまで入植。ノヴゴロド公国(後にモスクワ公国)と接するようになる。以後、スウェーデンとロシアの狭間でフィンランドは生きる。べつにフィンランド人として独立のために動くようなことはない。これが19世紀初頭まで続く。北欧の大国スウェーデンも昔はよく戦争をしていた。

だが、この本ではスウェーデン統治時代は第1章(51P)までで終わる。スウェーデン国王グスタヴ4世アードルフはナポレオンの大陸封鎖令に反抗。ロシア帝国アレクサンドル1世とで戦争。結果、1807年にフィンランドはロシアに割譲される。

フィンランドはロシア帝国の圧政に苦しんだ…というイメージは初期においては間違い。貴族たちはスウェーデンからロシア皇帝に臣従するように変わっただけ。フィンランド大公はロシア皇帝が兼任しロシア人総督が置かれた。身分制議会が開設。ロシア語の強制もなかった。
1812年に首都がオーボからヘルシンキへ移転。当時のヘルシンキは人口数千人。1850年で2万人ほど。

1848年のヨーロッパ諸国民の春もフィンランドには伝播せず。この段階でもまだフィンランド国民というアイデンティティーはなかった。だが、ロシアが心配し始める。フィンランドで検閲を始める。1870年にヘルシンキとサンクトペテルブルクに鉄道が開通。ロシアとの結びつきを強める。ロシアからフィンランドへ近代化。だが、支配言語はスウェーデン語。フィンランド語は農民の言語。

1871年にドイツ帝国が誕生。ロシアのフィンランド政策が変わり始める。ニコライ2世の二月宣言(フィンランド自治権の縮小)にフィンランド国民反発。日露戦争中に血の日曜日事件、ポチョムキン号の叛乱などの影響で大ストライキ。
このころ身分制議会が廃止され一院制議会へ。世界で3番目の女性参政権が実現。女性の被選挙権はフィンランド議会が世界初。だがロシアによって議会は解散させられる。

1917年12月6日がフィンランド独立記念日。レーニンのボルシェビキ政権がこれを承認。
政治体制が決まらないままの独立と失業と食料不足の混乱。そして資本家と労働者の対立からそれぞれの自警団が衝突。内戦へ。
レーニンが支援した赤衛隊と、カール・グスタブ・マンネルヘイム(1867-1951)の白衛隊(政府軍)の戦いが始まる。
二月革命のレーニンはロシア兵を引き揚げ、ドイツ・バルト師団が加わり、白衛隊の勝利。敗れた赤衛隊の兵士は投獄され、戦死した者は埋葬を拒否されるなど日陰者。この内戦は冷戦終結後まで歴史研究もタブー。
フィンランドがドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の弟ヘッセン公カールを国王に迎い入れる計画だったことは知らなかった。ドイツの敗北によって頓挫。フィンランドは共和制国家へ向かう。初代大統領はストールベリ。パリ講和会議でフィンランド独立は承認される。

第一次大戦後、東部国境はソ連とタルトゥ条約によりペツァモ港がフィンランドに割譲される。しかし、カレリアは獲得できなかった。
スウェーデンへの帰属意識が高いオーランド諸島は国連理事会決着でフィンランドへ帰属。その代わりに現在に至るまで自治を認められる。この決定に関わったのが日本の新渡戸稲造。
小作農から自作農へ政策。1920年代30年代に製紙パルプ業によって一人当たりのGDPはフランス、オランダに並ぶ。北欧型高福祉国家へと発展。

内戦によって共産主義者を追い出したフィンランドでは暴力的反共産主義運動が活発だったことを知らなかった。ファシスト的愛国団体が作られてた。だから隣国がソ連でも共産主義化を免れたのか。極左にも極右にも走らない中道で政権は安定。世界恐慌からすぐに経済復興。

この本のクライマックスは第4章、二度の対ソ戦争。第二次大戦中にフィンランドはソ連と戦争していた。国の規模から動員可能な兵力をはるかに超えた兵員を動員してた。
1939年11月30日から1940年3月13日までを「冬戦争」、1941年6月25日から1944年9月19日までを「継続戦争」と呼ぶ。
このへんは高校世界史にほとんど出てこないので多くの日本人は知らないはずなのだが、近年はネットでミリオタを中心に話題になることが多いらしい。

ソ連はエストニア、ラトビア、リトアニアと相互援助条約を締結しドイツの盾としてた。フィンランドがドイツ側になるとレニングラードが危なくなる。
スターリンから度重なるハンコ岬譲渡の要求をフィンランドは拒否。ついにソ連はカレリア地峡での発砲事件をフィンランドのせいにして侵攻開始。フィンランド沿岸都市への空爆を開始。ソ連はカレリア地峡に「フィンランド民主共和国」という傀儡国家(オットー・クーシネン首班のテリヨキ政権)をつくる。ソ連の主張は「フィンランドの労働者階級を守るため」(現在のウクライナ侵攻と同じようなことを言ってるw)

45万ソ連軍に対してフィンランド軍は30万。軍服も行き渡らず一部は自前で戦う事態。しかしフィンランドは善戦。ソ連側の予測が甘かった?!
フィンランド軍はカレリアを熟知。マンネルヘイム将軍の周到な準備。道路を封鎖しスキー部隊が森の中を自在に移動。モロトフ・カクテル(火炎瓶)で戦車に応戦。
伝説のスナイパー「白い死神」ことシモ・ヘイヘ(1905-2002)はなんと542人を射殺。ほんとかよ。ソ連は60万人増員を決断。
フィンランドはスウェーデンに和平仲介を期待。和平条約でソ連に隣接する10分の1領土を割譲。このとき42万非難民が流入。
冬戦争のソ連側犠牲者が13万1000人、フィンランド側が2万4000人。(ウクライナ侵攻もそうだけどロシアは兵士の損害がいつも破格に多い)

戦争が終わっても危機は続く。デンマークとノルウェーはドイツに占領。バルト三国はソ連に併合されている。スウェーデンもドイツ軍に通行権を認めるギリギリの状況。そんななかでフィンランドはヒトラーに接近する。ドイツの援助がないとソ連と戦えない。ドイツによるソ連侵攻計画バルバロッサ作戦に非ドイツ人部隊へ1200人の義勇兵を送る。ドイツ6個師団がラップランド進駐。(フィンランドを支援しなかった英米が悪い)

継続戦争にはソ連からの防衛という意味もあるが、フィンランドの奪われた領土奪還という目的もあった。英国はフィンランドに宣戦布告したがアメリカはしなかった。
ヒトラーはフィンランドを訪問しマンネルヘイム将軍の75歳誕生日を祝う。フィンランドはソ連の被害者であるために、ドイツの要求を拒否し続ける。ドイツとは別の戦争をしている振りを国際社会に見せないといけない。

ドイツ不利と見るやフィンランドは戦争からの離脱を試みる。和平をさぐる。すでに勝利を悟ったソ連から不利な条件を迫られる。これでは和平は無理。ドイツの支援を得るためにさらにドイツと接近。アメリカから外交を断絶される。マンネルヘイムが大統領に就任し休戦にこぎつける。スターリンはカレリアの戦力を中欧に回したかったか?
継続戦争におけるフィンランド側の犠牲者は6万6000。

戦後のフィンランドはソ連の占領は免れた。自国で戦争責任者を裁判。連合国管理委員会(ジダーノフ他ほとんどロシア人)
ソ連からドイツ軍の撤退を要求される。今度はフィンランド軍とドイツ軍が衝突。ロヴァニエミ炎上。これをラップランド戦争(1944年10月からドイツ降伏直前まで)と呼ぶ。ドイツ・フィンランド両軍で約4000人の死者を出す。

戦争責任裁判の結果、リュティ元大統領(禁固10年)以下、戦争時の指導者たち8名が有罪判決。(リュティはドイツと単独講和しない約束を個人として署名していた。)これにはフィンランド国民大多数が同情的。国を守るために致し方ないだろ。でも一人も死刑を出さなくて済んだ。

親ソ政党が復活。パーシキヴィ内閣に共産党系指導者が入閣。以後フィンランドは親ソ現実主義路線をとる。マーシャルプランは受けられないがアメリカの金融機関からローンは受けられた。IMFにも参加できた。
ソ連はフィンランドを挑発し内政干渉するのだが、世論がまったく人民民主同盟を支持しないw 国民はまったく社会主義化を望まないw

二度に渡ってソ連と戦ったしまった反省から、自国を大国間の争いの外に置く戦略をとる。1948年にスターリンソ連と相互援助条約(FCMA条約)を締結。自国が攻撃されたときはソ連は助けるけど、フィンランドは独立国家として侵略を撃退するために戦うという条文を入れた。このことで他の東欧諸国のようにならずに済んだ。この条文のおかげでワルシャワ条約機構に入らずに済んだ。

戦後の冷戦期を長期にわたってフィンランドを導いた大政治家がウルホ・ケッコネン(1900-1986)。ソ連と友好を保ちながら中立という、スウェーデンやスイスとも違う中立を貫く。
ソ連への賠償(主に鉄鋼品だったためにむしろ工業が発展)が支払い終わった1952年にはオリンピックを開催。OECDに1964年に日本に続いて加盟。しかし、アジア諸国との競争によって1980年代には経済に陰り。

その後の冷戦終結以後はさらに不況。EU加入、ユーロ導入、リーマンショック、ノキアの売却、女性大統領の誕生、NATO加盟?ポピュリズム政治などなどのトピックを列挙。
このへんはさらっと流し詠んだ。コイヴィストとアハティサーリはなんとなく名前は聴いたことあった。

この本、いろいろ調べものしながらで読むのに時間がかかった。それだけ初めてのことを知れた。フィンランドのことを知るのに最適だと感じた。

0 件のコメント:

コメントを投稿