ゴーゴリ「外套・鼻」を読む。
ニコライ・ゴーゴリ(Николай Васильевич Гоголь1809-1852)を初めて読む。自分は今までゴーゴリがいつぐらいの時代の作家なのかも知らなかった。後の作家たちに多大な影響を与えた偉大な文豪。
今回読んだものは平井肇(1896-1946)訳の岩波文庫(1938年版)。昔から日本人にもおなじみの一冊。
「外套 Шинель」 1842年 から読む。1842年は日本でいったら天保十三年。ニコライ1世の治世下。英国と清のアヘン戦争が終わった年。大黒屋光太夫が女帝に謁見してから50年後のペテルブルク。
50がらみの9等官下級役人のアカーキイ・アカーキエウィッチはただただ真面目に書類の清書をするだけの仕事を続けてきた男。
あまりに外套がぼろぼろでみすぼらしく、もう仕立て屋からツギハギ修復は無理と言われる。しかたなく外套を新調する。新調にかかる費用がわずかな給金の生活ではどうしたって出せない。費用を半額に値切って貯金すべてを出してギリギリ。
だが、無理をして外套を新調したことで男のつつましい生活の歯車が狂っていく。職場で外套を褒められ夜会に招待され、暗い夜道で追いはぎに外套を奪われたことが運の尽。
なんとか必死に外套を取り戻そうと、警察の偉い人や役人にかけ合うのだが、すべて間が悪い。運が悪い。
そして風邪をひいて惨めに死んでしまう……。
そしてペテルブルクの街には夜な夜な外套を追いはぎする幽霊が現れる…という話。
ロシア人は寒さに強いと思っていたのだが、ペテルブルクはロシアの中でもとくに寒いらしい。
そしてロシアの官僚機構。手続きと手順を正しく履行しないと上のほうまでたどり着けない。読んでて絶望。主人公に憐憫。今の日本もほぼこんな感じ。偉い奴は貧しく憐れな下賤を叱責する。
読んでいて芥川龍之介っぽいなと感じた。憐れな男への眼差しが似ている。語り口も似ている。おそらく明治期の知識人はゴーゴリを読んでいたらしい。
「鼻 Нос」1833-1835年 をつづけて読む。1835年は日本でいったら天保六年。大塩平八郎の乱が起こった年。
ある日突然顔から鼻が抜けだし街を歩き回るようになった下級役人とその騒動を描いた幻想的短編。
この作品はショスタコーヴィチのオペラ「鼻」で知ってはいた。だがストーリーのすべては知らない。
3月25日朝、ペテルブルクの理髪師イワン・ヤーコウレヴィッチが夫人の焼いたパンを切り分けていると中から「鼻」が現れる。これは水曜と日曜に顔を剃らせる八等官コワリョーフ氏のものに違いない。なのにその鼻を捨てにでかける。威張った巡査にとがめられる。
コワリョーフは自分の鼻が消えてなくなってることに気づいて街を探して歩く。立派紳士の姿をした「鼻」と出会う。「あなたはこのわたくしの鼻ではありませんか!」「何かのお間違いでしょう」と鼻は立ち去る。そして警察へ行ったり、新聞社に広告を出しに行ったり…。
巡査が「鼻」を持って来る。顔にくっつけようとしてもつかない。医者にもつけられない。
そして何事もなかったように顔に鼻が戻る。そんな不思議な事件を描いた幻想ファンタジー短編。
作者自身も「わからない」で閉めている。「実際、不合理というものはどこにもありがち」
現代人が読んでも十分に面白い。古さを感じない。外套を盗まれた男、鼻をなくした男への憐憫。おそらくゴーゴリの人道主義思想の発露。
ちなみに、乃木坂46の齋藤飛鳥は2016年にこの本を読んだらしい。
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