2022年6月6日月曜日

岩波新書280「グスタフ・マーラー」(1984)

岩波新書(黄版)から出てる柴田南雄「グスタフ・マーラー 現代音楽への道」(1984)を読む。

自分、これほどまでクラシック音楽を聴いていて、マーラーもたくさん聴いてきたのに、グスタフ・マーラー(Gustav MAHLER 1860-1911)がどういう人なのか?よく知らない。テレビでたまにやってるクラシック名曲エピソードや作曲家についての面白エピソード的な番組でもほとんど取り上げられない。
ボヘミヤのユダヤ人で、ブダペスト、ハンブルク、ウィーンやニューヨークで指揮者として活躍したことは知ってる。
著者の柴田南雄(1916-1996)先生は東大理学部卒で東大文学部も卒という経歴を持つ音楽理論家で著名な作曲家だったのだが、自分は一曲たりとも聴いたことがなかった。今ならすぐにネットで検索して聴ける。

自分の認識だと、マーラーはCDの時代になってから世間に知れ渡るようになった…と思ってた。演奏時間が長い交響曲ばかりのマーラーはLP時代はマイナーレパートリーだった。だが、意外に昔からマーラーは演奏されていた。そんな戦前から80年代までの日本における演奏史を見て来た柴田せんせいが教えてくれる。

作曲家がマーラーの作品を解説してるので、一般の読者は理解が難しい。スコアを見ながら曲を鑑賞する人、もしくは楽曲をほぼ暗記してる人ぐらいしか、読んで理解できないと思う。

マーラーは第一交響曲の段階ですでに古典の交響曲の習慣や枠組をいくつかの点で破っている。「第一交響曲」の項では
「カッコーの鳴き声は西洋音楽の中では、あのベートーヴェンの田園交響曲の第二楽章でのように、長三度の音程でのミ・ド、ミ・ド、に書き写されるのが普通だった。マーラーはそれを三度と聴かずに、四度でラ・ミ、ラ・ミ、と書き記した。何でもないことのようだが、そうではない。ここにも西欧と非西欧を分ける何かがある。」
という箇所を読んで、ちょっと驚いた。

第二交響曲の項で、柴田先生はべリオ「シンフォニア」を褒めている。自分、マーラーの第二よりも先にべリオ「シンフォニア」を聴いてしまった。この曲って1968年の昔からあったのか。
第五交響曲の項では、第四楽章アダージェットを引用しているヘンツェのオペラ「バッカスの巫女たち」を褒めている。自分、そのオペラをまったく知らない。

第六交響曲の項では、第一楽章の第一主題と第二主題を連結する和音について、柴田先生は初めて聴いたときに実に奇怪な、異様な感じを受けたと告白。
「思うに、このようにイ長調とイ短調の主三和音を直接連結するような楽句は古典派の泰西名曲にはあり得ないし、ましてその和音連結を三本ずつのトランペットとそれを裏打ちしているオーボエとで裸のまま出すなど、これまでの聴体験の中にまったく無かったので、戸惑いも大きかったのだろう。」
と語ってる。

第七交響曲は日本人にもっとも馴染みがないし人気もない。1937年2月にプリングスハイム指揮東京音楽学校オーケストラが演奏してから、1974年12月に渡辺暁雄指揮東京都交響楽団によって再演されるまで、じつに37年放置されていた…という箇所にはびっくりした。そんなにも第7番は無視されたのか。
終楽章は「もっとも価値に乏しい楽章」と批判されたりもするのだが、柴田先生は
「たまには、アッケラカンと、カーニヴァルのから騒ぎでも楽しむように無意味な音楽があってもいいのではないか。マーラーもそう考えたのではあるまいか。」
だと、かばう。ちなみに自分も第7番は数年に1回聴くかどうか。それは第8番も同じ。あと、あんまり第2番も聴かない。第10番も聴かない。歌曲集や「嘆きの歌」、ピアノ五重奏曲もほとんど聴かない。

第八交響曲の日本初演は1949年2月の山田一雄指揮日本交響楽団(N響の前身)定期演奏会。1949年って終戦直後のGHQ占領中。よくこんな大作が演奏できた。驚いた。

「大地の歌」は古代中国の詩人たちの歌をハンス・ベトゲによるドイツ語訳に基づいて作曲したもの。だが、第3楽章冒頭に相当するものが、李太白(李白)には存在しない?!「おそらく、ベトゲによる数篇の接合、模作であろう。」えぇっ?そうだったのか。

第九交響曲の項では、第一楽章の諦観に満ちた楽想や音型は、「大地の歌」第6楽章「告別」の「永遠に、永遠に、」(エーヴィヒ、エーヴィヒ)を引き継いでいると指摘。
「この曲想をカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で聴くと、四分音符のアウフタクトを正確に、つまり音楽的に正しく、器楽的に清潔に、様式的に美しく演奏している。一方、ワルターやバーンスタインやテンシュテットはむしろ溜息まじりの嘆き節として、アウフタクトの音符にむしろアクセントを置いてそれを長めに、敢えていえばユダヤふうのアクセントで弾かせている。この対照的な二つの方法は、今や時代遅れとなった新古典主義の演奏スタイル(カラヤン)と、むしろそれ以前のロマン主義(ワルター)または近年の新ロマン主義(バーンスタイン、テンシュテット)の違いでもある。どちらを好むかと言われれば、わたくしは後者をとる。」
とある。ちなみに、マーラー第九交響曲の日本人による本邦初演は1973年5月、森正指揮のNHK交響楽団。そんな最近?!

その他、始めて知ったエピソード。第一交響曲以前にも習作と言われる交響曲が存在したらしい。メンゲルベルクの間接証言によって、ピアノ四手版スコアがあったらしいのだが、1944年ドレスデン大空襲で失われたらしい。

マーラーを悩ませた美貌の才女アルマ・シントラーが、マーラーに一目ボレしたのが21歳のとき。フロイトは画家を父に持つアルマがマーラーにほれ込んだのはその名前(マーラーはドイツ語で画家)にあると分析してた?!(マーラーはフロイトの診断を受けたことがある)

このアルマが「その環境からもジェネレーションからも、むしろマーラーよりもナウい音楽感覚の持ち主だった。そのことは、新婚早々に成った第五交響曲のフィナーレのコラールを、とって付けたようで古くさいと批判していることからも判る。」と書かれてる。(なにせベルクが歌劇「ヴォツェック」をアルマに献呈している。)
アルマはマーラーの死後、建築家ヴァルター・グロピウスと再婚。そしてその後、アルマより11歳若い小説家フランツ・ヴェルフェルと再婚。

マーラーの長女マリア・アンナは幼くして亡くなっているのだが、次女アンナ・ユスティーナ(1904-1988)は後にウィーン出身の作曲家エルンスト・クルシェネクと結婚。さらに後、ウクライナ出身の指揮者アナトール・フィストラーリと再婚。アンナ・ユスティーナは彫刻家だったらしい。

「パリは、マーラーには苦手の都会である。」パリの聴衆はマーラーに辛辣?!マーラーは1910年4月17日の演奏会で第二交響曲を指揮してるのだが、聴きに来てたドビュッシー、デュカス、ピエルネといったパリ楽壇のお偉方は第二楽章途中で退席した?!パリとウィーンの音楽趣味は両極端?!

マーラーの命日は1911年5月12日。ニューヨークのホテルからウィーンの病院に移って5日目。「モーツァルト!」と一言残して息を引き取った。享年50歳。え、そんな若くして亡くなったの?!死因は喉を連鎖球菌に冒された?

ウィーン宮廷歌劇場でチェロ奏者だったフランツ・シュミット(1874-1939)は「マーラーが歌劇場におけるあらゆる旧い習慣や時代遅れなものを黙って見過ごすことは絶対になかった」と語るほど、完全主義、理想主義を徹底的に押し通した。

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