平凡社新書「世界史のなかの文化大革命」(2018 馬場公彦)を読む。著者のことはよく知らないが東洋哲学と日中関係、東アジア関係の専門家らしい。この本では中国とインドネシアの関係を扱う。
文化大革命は今も中国では研究発表が厳しく制限されている。資料すら残されなかった。だが、当時の人々がどのような目に遭ったのか?映画やドラマ、小説、書籍、ネット解説動画なんかでなんとなくイメージはしてる。
だが、1955年バンドン・アジアアフリカ会議、1965年の9月30日事件のことは世界史の教科書の最後の方で名前だけ見て知ってるだけ。中国とインドネシアの事件はどのように連係していたのか?
バンドン会議で反米反帝国主義で米ソ両陣営とは別の第三勢力を結集しようとした。周恩来の輝かしい外交デビュー。
しかし、フルシチョフのスターリン批判で中国はソ連への信頼を失い始め1963年には対立激化。インドはソ連と仲良し。
1965年にアメリカはベトナム北爆開始。米中戦争が具体的に迫ってきた。中国だけではアメリカに対抗できない…。第2回AA会議を模索。
戦後賠償ビジネスで日本政府、銀行、商社はインドネシアと深い関係。川島自民党副総裁は米英仏の支持と同意をとりつけて、インドネシア・マレーシア和解工作をもくろむ。周恩来は面白くない。必死の説得。東京会談は頓挫。
中国もインドネシアも1965年までにすべての外交カードを失ってしまった。インドネシアはマレーシアが非常任理事国選出に反発して国連も脱退してしまい、世界から援助を引き出すこともできなくなった。
だが、中国はインドネシアを経済的に援助できる余裕はない。スカルノは新植民地主義マレーシア粉砕で共産党と手を組む。
そして1965年9月30日(国慶節の前日)にウントン中佐、ラティフ大佐ら容共派による反スカルノクーデター発生。ヤニ中将ら6名の将軍が殺害され古井戸に投げ込まれるという殺戮。
だが、クーデターはたった1日で鎮圧。ナスティオン国防相とスハルトが権力を握る。党員350万人の共産党は非合法化。
インドネシア共産党のアイディット議長は銃殺。共産党員の検挙訊問殺害。華僑華人の学校や書店は焼き討ち。全土で反共運動拡大。住民同士の赤狩り。とにかく極端な反対方向への切り返し。反華排華運動へと発展。
とくにスマトラ島(アチェ)では虐殺が激しかった。そしてバリ島では1965年末から67年にかけて8万人が殺害。これは島内人口の5%。これはポルポトのカンボジア虐殺とほぼ等しい比率らしい。
当時のインドネシアの人口の2.5%(350万人)が中華系。財界を取り仕切る華人へのインドネシア人の反発はこれほどまでに強かった。多くの華僑が難民化。
真相究明の研究調査がされなかったため、虐殺の被害者数の把握は今日でも87000人から100万人までの開きがある。1967年10月にはインドネシアの中国大使館と領事館が閉鎖。
インドネシアは中国と縁を切って、アメリカとソ連と協力を再開。中国はインドネシアをファシストだと批判するしかない。もう「お友だち」はホッジャ率いるアルバニアしかいない…。
毛沢東を文革に駆り立てたのは中国の孤立もあるけど、1966年3月の日本共産党宮本議長ら訪問団が、ソ連修正主義を批判する共同コミュニケの件で中共と決裂したことも大きかったらしい。以後、中共と日共は双方ののしり合う。日共内部の中国派は党を除名。
西側諸国でもっとも文革の影響を受けた国が日本だったらしい。1968年が左翼学生運動のピーク。毛沢東語録が日本では15万部?!
日本の知識人たちの中には文革を讃美する人も多かったのだが、自分で現地に紅衛兵運動を取材に行った人は「権力闘争に過ぎない」と看破してたw わりと正しく次に起こることを予見してた。
西カリマンタン武装蜂起のときの華僑たちが悲惨極まりない。
毛沢東が国際社会に向けて呼びかけた世界革命の妄想は、革命を輸出された側には社会秩序の動揺、伝統的価値観や道徳観念の否定、暴力是認の気風を醸成し、結果として破壊と混乱をもたらしただけだった。
林彪の人民戦争論とか実践されたらえらい迷惑。毛沢東が世界の人々を不幸にした。
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