2020年8月10日月曜日

司馬遼太郎「街道をゆく8 熊野・古座街道 種子島みち ほか」(昭和52年)

3年以上前に買っておいたままだった司馬遼太郎「街道をゆく8 熊野・古座街道 種子島みち ほか」(1977年朝日新聞社刊)を朝日文庫版(1979)で読む。どこにも行けない時は旅行記を読む。

この一冊には4本の旅行記が収録。では順番に読んでいく。

「熊野・古座街道」
いきなり若衆組という南方由来の村落システムが出てきて驚いた。
親の言うことよりも若衆頭の指示のほうが優先。田舎では夜間や外出時に戸に鍵をかけたりしない。おひつにめしを残しておく。そうしておかないと若衆がふらっと入ってきて夜這いしたり米を食べれないから。そうしておかないと山火事のときなどに嫌がらせをされる恐れがある…。

日本の田舎では大正時代ぐらいまで夜這いの風習があったことを知っていた。母系制通い婚システムがあったことは知っていた。
子どもの父親が誰だかわからなくなるのでは?父親の指名権は娘側にあって指名された側に拒否権はない…。

若衆組は現在の青年団システムへと受け継がれている。田舎では青年団に入らないという選択肢はないと聞いた。田舎の集落から旧制中学へ入ると都会で暮らさないといけなくなり若衆組システムから外れ根無し草になってしまう。

今回の南紀熊野古座への旅を司馬せんせいが決めた理由は、お世話になっていたK氏がこどものころまで若衆組はたしかに存在したという証言に興味を持ったから。きっとおそらく西南戦争で蜂起した若者たちも若衆組であったに違いない。昭和維新の青年将校たちも同じ?

「豊後・日田街道」
自分はいちども大分には行ったことがなく地理関係がさっぱり。大友宗麟関係でしか豊後を知らなかった。
日田は天領だったので外様有力大名の藩に比べれば租税が安く余剰を得て屋敷なども立派なものが残っているらしい。
そして広瀬淡窓の咸宜園には全国から漢学書生が集まった。なので地名なんかも大和言葉っぽくないらしい。

「大和丹生川(西吉野)街道」
これは短くてそれほど印象に残ることもなかった。

「種子島みち」
種子島は天武の時代から一国扱いされた稲作に適した豊かな島。なので薩摩の支配に苦しんだということがないらしい。
鎌倉時代から種子島家が島主。司馬せんせいが訪問したときで29代当主の時代。当主の弟(あごひげの老人?)のおせわになってる。
種子島島民は日蓮宗が多いらしい。初めて知った。10代目のときにそうなったらしい。
島の北部が水田のある南部を支配搾取する構図だったらしい。

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