吉村昭「海軍乙事件」の文春文庫2007年新装版がそこに100円で売られていたので確保した。昨年12月ごろのこと。4作品を収録した一冊。では順番に読んでいく。
海軍乙事件(別冊文芸春秋No.123 1973年3月)
この本の半分を占める長編。戦局が緊迫する昭和19年3月31日、パラオからダバオへ飛び立った古賀峯一連合艦隊司令長官と福留繁参謀長が搭乗した飛行艇が遭難行方不明。海軍中枢部があたふたした事件ノンフィクション。
セブ島付近海上に不時着した福留中将他はフィリピンの抗日ゲリラに捕らえられていた!
敵の捕虜となって重要書類を奪われるという事態は軍法会議モノ。責任を問う声も高まった。自決を望む雰囲気づくりとか酷い。
だが、不測の事故だったしゲリラは敵軍じゃないということもあって不問。陸軍側も問題にしなかった。既に福留中将が捕虜となった噂を打ち消すためにあえて栄転。こういう処置は悪くはないが、でもやっぱり下級将校だったらたぶんこうはなってない。上級国民は守られる。
しかしやっぱり捕らえられた本人たちは気に病んでた。ほとんどが戦死。やはり軍人にはなるべきではないなと思った。
戦後、やはり作戦機密文書と暗号書は連合国側に渡っていたことが判明。
セブ島を退避する日本人非戦闘員の船を撃沈し複数回機銃掃射してた米軍は非道。
海軍甲事件(別冊文芸春秋No.135 1976年3月)
乙事件の前年昭和18年4月18日、ラバウルからブーゲンビル島ブインへ、最前線の将兵たちを激励視察のために飛び立った山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機が撃墜された事件。山本司令長官の死は秘匿されたために甲事件と呼ばれた。こちらは短編。
吉村昭は事件当時6機つけられた護衛のための一式陸上攻撃機に搭乗し、戦後まで唯一生存した柳谷謙治飛行兵長にインタビュー。
6機だけで敵16機(P-38)から長官搭乗機を守れるはずもなく、誰からも非難はされなかったが、後に多くのパイロットができるだけ多くの敵機を撃墜することに使命を感じ命を散らした。
柳谷氏はその後、ガダルカナル方面出撃作戦中に銃撃で右手甲を吹き飛ばされ帰還。その後、麻酔もないまま軍医に手首を切断され呉へ送られる。以後、義手の教官へ。命を繋いで吉村氏に貴重な証言を残してくれた。
山本長官搭乗機が敵機に攻撃されたのは偶然遭遇?それとも暗号電を解読された?
戦後になってやっぱり解読され山本長官搭乗機が狙われたことが判明。
八人の戦犯(文芸春秋 1979年6月号)
ポツダム宣言の中に「戦争犯罪人を処罰するべし」という箇所があるのだが、それは連合国がするのか?日本側がするのか?条件に書かれていない。じゃあ、日本側で軍法会議やっとくわ。
俘虜虐待や処刑などの罪で8人だけ裁判をやったけど、連合国がつぎつぎと戦犯を訴追していったので立ち消え。日本側が裁いた8人中5人が戦犯として処刑されたという、ほとんど知られていない歴史を吉村氏は掘り起こした。
そもそもアメリカ側も俘虜に拷問やってた。日本はアメリカみたいに非戦闘員一般市民を大量虐殺していない。なのに日本側はBC級戦犯は実に920名が死刑を執行された。無実の罪だったり上官の罪をかぶってしまった人もいた。酷い話。
シンデモラッパヲ(週刊新潮 1975年7月31日号)
日清戦争で胸を撃たれても進軍ラッパを吹いた勇敢な喇叭卒の戦死は歌にもなって内外に名前を知られた。だが、それは同郷で同じような境遇の喇叭卒と人違い?
かつて小学生「修身」の教科書にも書かれ、戦後忘れらた戦争美談の真相。
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