「トワイライト ささらさや」(2014 日活)という映画を見てみる。またまた日本人の死生観が出た映画。愛する人の幽霊ファンタジーヒューマンドラマ。自分ならぜったいに見ないタイプの映画。新垣結衣がでてるから見た。ただそれだけ。
いきなり冒頭から落語家の葬式シーン。どうやらこの映画は落語家の語りという形式で進む人情喜劇らしい。大泉洋が苦手。
この映画の幽霊は、霊が見える「誰か」にだけ憑依して喋ることができるらしい。それ、新しいな。
もう冒頭10分から、うなじ後れ毛喪服姿ガッキー、高島田ガッキー、乳飲み子抱えたママガッキー、どれもが異常な可愛さで見るのがつらい。生きてることがつらい。本当につらい。
夫を事故で亡くしたガッキー、子どもを奪われるかもしれないということで、亡くなったおばが暮らしてた「ささら」という田舎へ引っ越す。
街の風景がなぜかミニチュア風に見えるエフェクトがかかっているのだが、これは「彼岸からの眼差し」のようなものを表現しているんだろうか。だとしたら独自のアイデアのない表現だ。
赤ん坊に引き寄せられるように近所のババアが接近してくる。さすが田舎だ。赤ちゃんが泣いているというだけで遠慮なくズカズカと家の中まで上がりこんでくる。だが、赤ちゃん自体がめずらしいのかもしれない。今の世相も表してるんだろうな。
新垣結衣はこの近所の婆さんたちとのシーンで、不安そうな顔しながら赤ん坊をあやす。はかなそうで不安そうな若くたよりないママ。ガッキーは気の強いツッコミキャラのほうが好きだわ。
大泉との安アパート回想シーン、バックがなぜかドリフコントみたいなヘタ絵。ビンボーガッキーにときめく。俺もガッキーとこんな暮らしがしたい。
これは監督のセンスの問題なのかもしれないが、脇役たちがみんな奇妙なプレゼンスを持ってそこにいる。何も仕事をしていないぼんやり駅員、泥棒引越し業者、宇宙人みたいな顔した不機嫌なギャルママ、気持ちの悪い不動産業者、そして藤田弓子……。
みんな見た目が個性的すぎる。存在が強すぎる。これは原作にある存在感なの?あんなにイライラした表情のスナックで働くギャルといきなり友だちにはなりたくならないと思う。レプロバーター中村蒼も変すぎるキャラだ。
愛する人の幽霊が出てくるという温かいファンタジーなのに、電車の中で赤ん坊の泣き声がうるさいと怒鳴る小汚いオヤジとか、それを見てブチキレる子連れ女とか、ニグレクトを疑う市の職員とか、痴呆老人問題とか、中途半端に現実も盛ってくる…。見たくないモノ、シーンを出してくる映画だな。
後半はかなり長く感じた。父・石橋凌と息子・大泉の関係をどう収束させていくのか…と注目して見るわけだが、やはり悪い意味で予想した通りだった。まるで解りやすく作ったミュージックビデオのようだった走馬灯シーンが長い。こういうのはテンポよく適切なタイミングで繰り出してくれないと泣けない。
しかも笑えもしない。そもそも笑いの要素がまったくなかった。
結局また新垣結衣でつまらないヒューマンドラマに付きあわされたなって感想。見ていてイライラするストレス映画。この監督の過去作を調べてみたが、「ああ、やっぱり」っていう自分と合わない作品だらけだった。
新垣結衣は女優として欲がなく性格が頑固。今のままでいいと思ってるのかもしれない。今後もあまり新たなイメージの役に挑戦したりしないだろうと思う。まさみの「ガンジス川」や「モテキ」に相当するような作品には出会えないだろう。
ガッキーの授乳シーン(!?)はもうほんの少しでも踏み出してみてもよかったのに…って思った。考えうる最も消極的な表現方法だ。
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