2024年1月24日水曜日

小倉貞男「ドキュメント ヴェトナム戦争全史」(1992)

小倉貞男「ドキュメント ヴェトナム戦争全史」(1992)岩波書店を読む。著者は読売新聞サイゴン特派員を経て同紙編集委員、インドシナの専門家。この本は主にベトナム政府幹部たちにインタビュー聴き取り調査して得た「ベトナム側」視点のベトナム戦争通史。

ベトナム戦争が世界に与えた影響は大きい。日本にもベトナム難民が流れ着いたし、白豪主義だったオーストラリアが建国以来初めてアジア系外国人としてベトナム難民を受け入れた。多くのベトナム人が外国へ散らばった。ベトナムの被害も甚大だがアメリカも深い傷を負った。

日本もインドシナの戦火に噛んでいる。日本のインドシナ侵攻がホー・チ・ミンとヴェトミンを生み出し勢力を広げた。
なのに日本人一般のベトナム戦争への知識は、自分を含めて、とても乏しいように思える。こういった本で学ぶしかない。

もう第1次インドシナ戦争とか、バオ・ダイ帝とか、ディエンビエンフーの戦いとか、多くの日本人にとって遠い記憶の彼方。
ゴ・ディン・ジエム政権下の南ベトナム政府についてリアルタイムで知っているという人はもう70年配の人々に限られる。

自分は知らなかったのだが、ジエム政権下で農地改革に取り組んだのが、日本の戦後にGHQマッカーサーの下で農地改革を断行したウォルフ・ラデジンスキーだった。
だが、対フランス戦争時にヴェトミンによって小作農に分け与えられた土地を取り戻そうとする地主階級と小作農双方からの不満によって失敗。

この本を読むと、アメリカがこれほどの戦力と物量を投入しても、ジャングルに枯葉剤を撒いても、北ベトナムに勝てなかったことが異常なことのように思えてくる。

1968年1月31日の「テト攻勢」は南ベトナムとアメリカの勝利が絶望になっていく有名な転換点だけど、今読むと、ハマスのイスラエルへの同時多発大規模奇襲攻撃に似てるなと思えた。何か作戦上の成果を得るというより、国際社会へのアピールが目的。

サイゴン・チョロン地区アンクァン寺付近の衝突でサイゴン政府軍海兵隊に捕らえられた解放戦線青年が、後ろでに縛られた状態で路上で拳銃で頭部を撃たれて処刑される写真(映像)が撮られた(AP通信エディ・アダムズ記者)ことはアメリカ社会を震撼させた。
この映像は子どものころから何度か見たことあった。てっきりアメリカ軍の将軍か誰かだと思ってた。南ベトナムの悪名高い国家警察本部長官グエン・ゴック・ロアンによるリンチ処刑。

テト攻勢は共産側で45000人の死者、米軍は1100人、政府軍同盟軍は2082人が死亡。だがウェストモアランド南ベトナム援助軍司令官はジョンソン大統領によって解任。厭戦の米国民も諦めの気分。

ニクソン大統領のカンボジア侵攻とラオス作戦で戦況は好転するかに思えたのだが、アメリカ軍は白人と黒人がいがみ合うなど士気が低下。結果、1973年1月のキッシンジャーとレ・ドクトによるパリ和平協定。3月29日にはアメリカ軍はサイゴンに軍事顧問団を残して全軍撤退。

パリ協定によって南にはサイゴン政府と南臨時革命政府と二つの政府が並立。こんなの絶対に関係が崩壊する。
そして1975年のサイゴン陥落。タンソンニュット空港は国外脱出しようとする人々で混乱の極致。国が崩壊するとどうなるのかを教えてくれる。
北がサイゴン政府を総攻撃したらアメリカ軍が戻ってくるのでは?と不安があった。だが党政治局は「それはない」と判断。その理由はウォーターゲート事件だった!?

自分、以前から1979年のベトナム軍のカンボジア侵攻と中越戦争(第3次インドシナ戦争)に関する書籍を以前から探していたのだが、見つけられなかった。しかし、この本で十分に知識を得られた。
社会主義国同士の戦争で、当時は戦況がよくわからなかったに違いない。

「クメール・ルージュ」と言う言葉は、厳しい国家財政の中から国費でフランスに留学させたのに共産主義者になって帰国したポルポトやキュー・サムファンらを侮蔑してシハヌークが呼んだ呼称!?
カンボジア共産党はベトナムの指導で誕生したのに、ポルポトらはベトナムを極度に嫌う。

1978年12月25日、ベトナム正規軍19個師団、約10万人が1千キロにおよぶ国境全域にわたってカンボジアに侵攻。メコン川をネアクルンで渡河したベトナム軍は79年1月7日にプノンペンを占領。ポルポト派をタイ国境山岳地帯に追い出して、カンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)が成立。狂ったポルポト統治から多くのカンボジア人を救ったのだから、「侵攻」と呼ぶのは正しくないと思う。

これにより中国とベトナムの関係が緊張。ベトナムを「懲罰」する目的で、1979年2月に許世友広州軍区司令官をベトナム侵攻作戦最高司令官に任命。ベトナム国境に集結した広州、成都、昆明、武漢、新疆、北京の各軍区から軍団が集結。2月17日午前6時、3個師団13万人が1600キロ国境全域から殺到。20日にラオカイ、27日にカオバンを占領。両都市を瓦礫にする。3月にランソンを占領したところで、対ベトナム戦の勝利を宣言し、「懲罰」の目的は達したとして5日に撤退開始。

中国側からは何の発表もなかったが、ベトナム側によれば、国境地帯320の村が焼かれ、904の学校、430の病院が破壊。以後、ベトナムは中国国境に大部隊を配置しなければならず、国家財政を圧迫。
ベトナム国防省発表によると、60万人を動員した中国軍は62500人が死傷。550両の戦闘車(戦車280両をふくむ)を破壊。大量の武器、弾薬、捕虜多数を捕獲。
ベトナムは地方軍が戦ったのみ。ハノイ正規軍とカンボジアで作戦中の正規軍は動かず、中国の目的は達成できなかった。

国境山岳地帯を侵入した中国軍戦車は対戦車ロケットで狙い撃ち。中国軍兵士の士気は低く、タイグエン捕虜収容所で中国軍兵士に聞いたところでは、出身地は瀋陽、河北、河南、山東、貴州、広東、四川、広西チワン自治区各省から徴用され、簡単な訓練の後に戦線へ。
ベトナム兵によれば「中国兵の携行武器は少なく、10人に小銃が2丁、手ぶらで戦場に来て、背後から指揮者が前進を命令。そのまま地雷原に入って犠牲者が出てびっくり。前進を拒否した兵士は指揮官に射殺された」

ベトナムには華人がたくさんいた。明が清に滅ぼされたときに多くの亡命者がベトナムに渡った。彼らはクメールが支配していたメコン一帯を占領、中国人が移住しサイゴンとチョロンが建設された。カンボジア人は今もこの地はもともとはカンボジア領だと主張。

南北統一後、レ・ズアン体制は華人たちにベトナム国籍を強要。これを迫害とみなした中国人がベトナムを脱出。1978年に26万3千人が中国へ脱出。(UNHCR、1990)
ベトナムと中国の関係正常化は1991年。

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