2024年1月27日土曜日

中公新書1371「鄭和の南海大遠征」(1997)

中公新書1371「鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編」宮崎正勝(1997)という本がそこにあったので手に取った。
鄭和(1371-1433)って、明の時代に南海を遠征した人…という知識以外に何も持っていない。何か教えてもらおう。

元帝国から明帝国へ。前半はそのへんの世界情勢をおさらい。洪武帝(朱元璋)とか名前は高校世界史で憶えてたけど、かなりヤバい人。建国の功臣たちをつぎつぎに粛清していくとか、まるで頼朝だしスターリン。

燕王朱棣が「靖難の変」をへて第2代建文帝から皇位を簒奪。第三代皇帝永楽帝となる。宦官だった鄭和は皇帝から重用されていく。身長が180cmあって眉目秀麗で頭の回転も速く弁が立ったらしい。
この人は雲南で明の捕虜となったときに宦官にされたらしい。捕らえた捕虜を宦官にしてしまうとか人権侵害も甚だしいw 元時代の雲南は住民全員がイスラム教徒だったらしい。鄭和は元時代の色目人。

「宝船」は200~300人で操る大型艦船。推定では積載量2500トン?!排水量3100トンと推定。で、でかすぎる。(8000トンという説もあるらしい)
南シナ海、インド洋の荒海を航行するので、平底の沙船でなく竜骨を備えた尖底の構造船だった説が有力。
自分、1420年の明が技術でも量でも造船力で圧倒的に世界一だったことを知らなかった。コロンブス艦隊も3隻(サンタマリア号は200~250トン)、ヴァスコダガマ艦隊も4隻(サンガブリエル号は120トン)、マゼラン艦隊は5隻265人だったのに、鄭和艦隊は2万7000人の大艦隊。

第1回から第6回までの17年間、南京・劉家港からチャムパ、ジャワ、パレンバン、マラッカ、アルー、サムドラ・パセー、セイロンをへて、クーロン、コチン、そしてカリカットという航路を往復。さらにモルジブ、ホルムズ、アデン、東アフリカにも到達。
宋時代から積み上げた外洋航海の技術と海図を得ていく。それはカスコ・ダ・ガマがカリカットに到達する100年前。

この間、マジャパヒト王、密輸中国人、セイロン王らと交戦もしてる。鄭和はよく死ななかったと感心するのだが、第7回でカリカッタで死んだらしい。死因はわかってない。南京中華門郊外の牛首山山麓に埋葬されたらしいのだが墓所がどこかもわかってない。世界史に名を残した人物なのに。

こんな大艦隊を数年おきに派遣してたらお金がかかってしまう。やがて、明帝国は北方遊牧民からの圧迫に備えて外征の余裕はなくなる。

鄭和艦隊によってキリンが中国に渡ったことを初めて知った。瑞兆を告げる伝説の麒麟と、この動物がソマリ語で同じだったので、麒麟としてはるばる永楽帝の北京へ連れていかれたらしい。当時キリンを見た中国の人々はビビったに違いない。
あと、鄭和は足利義満時代の日本に来た説もあることを知った。

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