昔の自分は秋葉原・お茶の水・神保町が散歩買い物コースだった。秋葉原でCDやDVD、家電PC用品なんかを見た後に神田明神の階段を上って聖橋を渡り、お茶の水の丸善、ディスクユニオンをひやかし、坂を下って神保町の書泉ブックタワー、グランデ、東京堂書店、神田古書センター、最終的にキッチン南海でカツカレーというのが定番だった。
けど、自分用のパソコンを手に入れてスマホを持つようになってから、ほとんど書店巡りや中古CD漁りをやめてしまった。
明治大学の手前の角で右方面に登っていく坂の上をちらっと見ると、そこに山の上ホテルがあることは知っていた。そのホテルが多くの文士、作家たちが原稿を書くために籠ったりするホテルだということはなんとなく知っていた。新しいカメラを買ったときに数回、山の上ホテル正面の写真を撮りにいったこともある。
この「山の上ホテル物語」によれば、池波正太郎と山口瞳が日記やエッセイに頻繁に取り上げていたそうだ。ここのてんぷら、ステーキ、コーヒーはとても美味しいらしい。
そして、川端康成や三島由紀夫もここを利用。三島は
「東京の眞中にかういう静かな宿があるとは思わなかった。設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人っぽい処が実にいい。ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに。」
という一文を書いた。
石坂洋二郎も山の上ホテルへの賛辞を書いた。檀一雄、松本清張、中村眞一郎、吉行淳之介、五味康祐、小林秀雄、吉田健一、舟橋聖一、高見順、安岡章太郎、丸谷才一、といった作家がここに泊まったそうだ。
池波正太郎は直木賞選考のために候補作を読むため3日間過ごしたりしたらしい。(読書のためにホテルを利用ってすごい贅沢)
昭和12年ごろに建てられた本館35室、昭和45年に建てられた新館40室、食堂バー宴会場が5つという、都心でありながら落ち着いていてリラックスできる丘の上の小さなホテル。両国の花火、後楽園のナイター、そして富士山も見える高台のホテル。
昭和12年の建設時の施主は炭鉱王佐藤慶太郎。都美術館を寄贈する金持ち。ここで食生活を改善する目的で日本生活協会を組織。戦後は米軍に接収され、返還後に山の上ホテルとなる。なんと昭和50年ごろまでホテルの所有者(佐藤慶太郎の女婿で東北大教授)が売ってくれず、賃料を払っての営業だった。
山の上ホテル創業者吉田俊男は、明治の国定教科書編纂で知られる吉田弥平の息子。見た目は学者のような風貌だったという。(そして、義理の兄は俳人水原秋櫻子。)
東京商大(現一橋大)卒業後の昭和12年に旭硝子入社。昭和28年に退社し、昭和29年より山の上ホテルを開業。ヨーロッパの一流ホテルを見て回って研修。超一流じゃないけど程よいサービスをめざす。この社長が大正二年生まれで頑固でわがままでこだわりの強い変人社長。
社員を叱り飛ばし、説教が長くて困らせるw ついていけない社員従業員はどんどんやめて行く。山の上ホテルに合う人だけが残った。
礼儀を知らない客は願い下げ。品の良い客が自然と集まってくるホテルをめざす。料理の食材には社長自らチェック。
あと、この本は昭和30年代のホテル業がどのようなものだったのかも教えてくれる。昔の日本人はホテルの予約なんてしなかった?上野駅や横浜港で降りてくる客をつかまえて客引きをする「駅前旅館」スタイル。社員はそういう営業をやらされる。
昭和32年に日本ホテル協会に57番目に加入。つまり当時の日本には全国で57つしかホテルがなかった。ホテルになるには風呂、ロビー、ダイニングなどの基準があったそうだ。
トーベ・ヤンソンも泊ったと知って驚いた。エベレストに初登頂したエドモンド・ヒラリーとテムジンも泊った。バレーボールが盛んだったころはソ連、チェコの選手も泊った。
あと、受験シーズンは受験生の予約で埋まり、一般客は予約がとれないほどだったらしい。
この本、構成が整ってなくて、好き勝手に話したいところから話してる感じ。あまりよくまとまっていない。「山の上ホテル物語」というタイトルから、てっきりエッセイ集のようなものかと思っていた。違ってた。従業員、支配人たちによる「ホテル屋」吉田俊男伝とでもいうべき一冊だった。
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