2022年7月7日木曜日

カルピスをつくった男 三島海雲(2018)

「カルピスをつくった男 三島海雲」山川徹(2018 小学館)を読む。この本は今年の1月に文庫化もされているらしいのだが、自分は2018年発売の単行本で読む。

この本は三島海雲(1878-1974)という人物の伝記。筆者はあらゆる文献を調査して、多くの関係者とゆかりの地を訪問し話を聴いている。
毎年7月7日が「カルピスの日」であることはまさみが教えてくれた。だが、その日がカルピスの日なのは七夕だからではない。カルピスが販売開始された日が1919年7月7日だったから。

明治11年(1878)大阪府萱野村(現箕面市)の浄土真宗の寺に生れた三島は京都西本願寺文学寮(エリート僧侶教育機関)を卒業後、東京高輪にあった仏教大学に編入。そして中退。時代は就職難。いわゆる大陸浪人として清国(北京)へ渡り、中島裁之の東文学社で日本語教育に従事。明治36年(1903年)、山林王土倉庄三郎の五男五郎と一緒に日本の雑貨などを扱う商社「日華洋行」を設立。

紀州ネルの販売では失敗したのだが、軍服で使われる金モールではなんとか儲ける。そして時は日露戦争目前。当時は大倉財閥(戦争があるたびに成長した死の商人)が満洲での軍馬を独占していたので、軍馬の買い付けのために佐々木安五郎らと地図上の空白地蒙古へ。だが時は冬。モンゴルでは秋に肥えた馬はすぐに売られてしまい買い付けに失敗。

日本人は「モンゴル」というと後のモンゴル人民共和国(現モンゴル国)を思い浮かべるのだが、明治以降戦前まで日本人が接したモンゴルは現中華人民共和国の内蒙古自治区を指すということは今まで考えたこともない盲点だった。

なかなか良い馬は手に入らなかったのだが、ヘシグテン旗の貴族ジャンバルジャヴのパオで初めてモンゴル人が普段食べてる乳製品を口にする。これが明治41年(1908年)。
筆者も100年前に三島が北京から三島がたどった道を車で行く。パオに滞在し乳製品を口にする。砂糖や粟を混ぜて食べる。
(曽祖父から三島の話を聴いていた古老(80過ぎ)を探し当てた筆者は話を聴く。よく覚えてんな!と驚いたのだが、冬の間ずっとテントで家族と話でもするしかない暮らしだとひたすら想い出話でもしてるしかないか。)

三島にはあまりビジネスと経営の才能はなかった。モンゴルの王の依頼で村田銃を売って得た牛を日本に輸出してもお金にならなかった。

明治日本は衣服に使う羊毛をオーストラリアからの輸入に頼っていた。日華洋行を退社後、大隈重信の支援を受けオーハン旗で綿羊の品種改良に取り組むのだが、辛亥革命によって清朝は滅亡してしまいビジネスを失う。
その後もいろいろ大陸で再起を図るも時代は日貨排斥などの反日運動の激化。大陸で一旗揚げることはきっぱりあきらめ、1915年(大正4年)に日本に帰国。三島は無一文。
ここまでがこの本の前半。

モンゴルで学んだ乳酸菌食品を日本で製造。三島は土倉龍治郎のつてで大正6年にラクトー株式会社を設立。モンゴル遊牧民の乳製品を「醍醐味」と名付けて商品化。そして大正8年よりカルピスを発売。大正12年に社名を「カルピス製造」に変更。(最初はカルピルだった?!)
時代は日本初の大正健康ブーム。世界的にヨーグルトと乳酸菌がキテいた。時代の波に乗る。山本権兵衛や岩崎小弥太からも注文が来る。
発売から4年後に関東大震災が起こるのだが、三島はトラックで水に飢えた東京の人々の渇きをカルピスで癒した。カルピスはさらに知名度を上げる。

カルピスは宣伝広告デザインを大戦後困窮していたドイツ他ヨーロッパの画家を救うためにヨーロッパで募集。三等のオットー・デュンケルスビューラーのものが超有名。カルピスマークは黒人でなく日焼けした健康的な人という意味?
「初恋の味」というキャッチコピーは当時としてはかなり思い切って攻めたものだったらしい。
三島はイタリアの詩人ダンヌィンツィオとムッソリーニにも手紙を書いていた!

昭和14年には満洲でもカルピスを製造販売。しかし戦争で東京本社と工場を失い、昭和23年に会社を解散し新たにカルピス食品工業を設立。

あとのページは経営者三島の後年。正直、このへんはそんなに面白くもない。
ただ、この人は生涯仏僧。乳酸菌飲料は類似品が多く競合も激しかった。多額の広告宣伝費をかけたのだが、儲け一筋経営は最初から最後までやらなかった。
昭和の経営者はたいてい帝大卒か、でなければ大陸と関わった人。三島は後者。

現在小金井市の江戸東京たてもの園に移築されているデラランデ邸(信濃町)ってかつて三島と家族が住んでいた?長嶋茂雄や金田、広岡、藤田もやってきて写真に納まってる。

内蒙古の人々の暮らしは中華民国になった時点から変わっていく。三島が旅をしたモンゴルは失われつつある。漢民族の移住。貨幣経済。土地の所有が遊牧民たちを定住化させる。遊牧民としての文化が失われつつある。草原も荒れ果てる。
だが、遊牧民生活を止めない人々もいる。「なぜ止める必要が?」「お金はないけど、草原があって家畜がいて家族がいる暮らし以上に何を求める必要が?」これには返す言葉もない。
日本の若者は会社にこき使われ貧富の差が広がって少子化。日本で起こってる児童虐待という話にはモンゴルの人々も哀しみ呆れる。

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