2022年3月25日金曜日

沈黙 サイレンス(2016)

マーティン・スコセッシ監督の「沈黙 -サイレンス-」(2016 パラマウント)を見る。脚本はジェイ・コックス。日本での公開は2017年1月。配給はKADOKAWA。原作はもちろん遠藤周作の「沈黙」。遠藤は欧米でもその名を知られる日本の大作家という扱い。

この映画、制作されていたときから気にしてた。でも、切支丹弾圧という地獄を描いてるのでそれほど見たくもなかった。その後、原作も読んだ。ようやく見る決心。

冒頭から雲仙の熱湯をかけるという拷問シーン。日本にかぎらず昔からお役人というものは「なぜにそこまでその仕事を頑張れる?」というぐらいにこういうことにシャカリキになる。すごく威張ってる役人がいる。
それは今の日本の警察も同じ。交通違反が起きやすい場所で待機していて不運なドライバーを呼び止めるだけの簡単なお仕事みたいな。一般市民よりも自分たちが上にいるということを確認できるみたいな。

江戸時代初期、イエズス会宣教師ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)のもとに、日本で潜伏布教中のフェレイラ(リーアム・ニーソン)が棄教したと知らされる。あのフェレイラ師が?信じられん。
2人は恩師と救いを求める信徒のために、ヴァリニャーノ神父を説得し危険な日本へ渡ることを決意。このへんは原作のイメージそのまま。

マカオでただ一人の日本人キチジロー(窪塚洋介)と出会う。この人は漂流者?本人は否定するけど切支丹?そしてキチジローを案内役に徒手空拳で日本潜入。これは心許ない。

トモギ村の老人(笈田ヨシ)がふたりの前にやってくる。もう長崎は危険すぎる。決死の潜入。村のじいさまは神父不在のため代わって村人を洗礼していた。ロドリゴとガルペが来たことでやっと村人に布教できる。

ロドリゴとガルペのふたりはフェレイラの消息を探るのだがこの村人たちはよその村の事はわからない。村のばあさんがこれ以上ないぐらいに不気味に描かれてる。やたら虫の鳴声が強調されてる。
コヒサン(告悔)にやってくる村の女が片桐はいり。言葉がほとんど通じなくて神父は戸惑う。ちょっと面白いシーン。虱だらけの汚い小屋で一日中過ごすしかない。ふたりはイラついて口論。

ふたりの神父が潜伏していることは五島にも伝わる。どうやってここの居場所を知った?キチジローから聴いた。でもやつは切支丹じゃないのでは?キチジローは8年前に踏み絵により棄教したが家族は処刑された悲しい過去。そうだったのか。小舟で五島に渡るシーンがすごく幻想的。
キチジローは出身地の村に二人を連れて行き布教活動を支援。切支丹の村人はみんな信仰に必死。信仰の証を求める。そしてフェレイラの消息と居場所をつかむ。

だが長崎奉行・井上筑後守(イッセー尾形)がやってくる。霧の向こう側から微笑みながらやって来る。宣教師の身柄引き渡しを要求。モキチ(塚本晋也)ら4人が人質。
踏み絵はクリアするものの、キリスト像に唾を吐くのは無理。キチジロー以外の3人は棄教できずに磔にされ荒波にもまれて絶命。なぜそこまで頑なに信仰を守ろうとする?

一部始終を見てるしかないロドリゴの苦悩「なぜ神はこれほどまでに苦しい試練を与えながら沈黙を?」

ロドリゴはキチジローに売られる。キチジローは銀貨を投げ与えられる。
ここで初めて小松菜奈と加瀬亮が登場。みんな囚われの切支丹。もれなくみんな汚い身なり。小松はわりと長い英語セリフがある。
そしてロドリゴと井上筑後守と問答で直接対決。お前が信仰を否定すれば村人は助かる。

さらに通辞(浅野忠信)とも問答。必死に表面上だけでも棄教を勧める。だがロドリゴは頑な。イッセーと浅野がほぼ日本全権代表。表面上にこやかで穏やか。

お白洲での一部始終(かなりショッキング)を見せられる。加瀬亮は殺されるためだけの役。
簀巻きにされた百姓が海に沈められる様子を見せられる。ここで小松菜奈も殉教。同僚ガルペも溺死。もうやってることがヤクザ以下で邪知暴虐。この世の地獄。
どうしてこういう仕事を粛々とこなせる役人と手下たちがいるのか?頑張る必要のない仕事を執拗に頑張るのか?暇なのか?
だがそれはスペインにおける異端審問の末の火あぶり処刑だって同じだろ。
そしてロドリゴはフェレイラ元神父と対面。最後の問答。フェレイラも信仰を棄てることを勧める。「もうこの国での布教はあきらめた。」
さらにロドリゴ牢のそばで切支丹村人たちの「穴吊りの刑」が始まる。殉教者たちの苦しみの声を聴かされる。もう発狂するしかない。
ここでようやくロドリゴはイエスの声を聞く。「私を踏みなさい」

日本をまるで収容所列島のように描く。日本は世界で稀なキリスト教が広まらなかった国。国民は祖霊崇拝と日本の神々を棄てられなかった。人々は貧しく教育もないのに妙に理屈っぽい。キリスト教をどんどん独自解釈で曲げていく。それによってザビエルも悩んだ。この国だけは布教は無理なんじゃないか。

もし幕府が禁教政策をとらなければ島原の乱は日本中で起こっていた?太平天国の乱のようなことが起こっていた?井上筑後守の言う通りキリスト教は危険?
心の問題に対して、同じ人間をあそこまで残虐に殺せるのか?日本の官憲は明治昭和になっても社会主義者を同じように扱う。

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