2022年3月27日日曜日

カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺(2010)

2010年7月にみすず書房より邦訳が出た「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」(根岸隆夫訳)を読む。第二次大戦中にスモレンスク郊外カチンの森で起こった大量虐殺事件の真相と顛末。
著者のヴィクトル・ザスラフスキー(1937-2009)はレニングラード出身でレニングラード大で社会学の教鞭をとっていた人物らしい。1975年にカナダに出国し帰化したソ連・イタリア政治関係史の専門家と経歴に書いてある。
PULIZIA DI CLASSE Il massacro di Katyn by Victor Zaslavsky 2006
原書はイタリア語だったっぽい。カチンの森事件とは何か?
1940年4月と5月に、2万5000人以上のポーランド市民が、ソ連内務人民委員部(NKVD、通称秘密警察)によって銃殺された。その大部分は陸軍将校だったが、他に知識人、大学教授、学校教師、実業家、幹部公務員、地主、警察官、国境警備隊、神父たちがいた。犠牲者たちは、ソ連が独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロプ協定)にもとづいてソ連に分割された東部ポーランドを占領したさいに、捕らわれた。この犯罪はカチンの虐殺と呼ばれている。
1939年9月にドイツがポーランド侵攻を開始し第二次世界大戦が始まった。ドイツに呼応するように100万ソ連軍も宣戦布告もないままポーランドに侵攻。ドイツに占領された側も地獄だったのだが、ソ連に占領されたポーランド(ポーランド国土の52%、人口で3分の1)も地獄だった。

ポーランド人たちを奴隷として強制労働させるのに、いずれ邪魔になるであろう軍人将校知識人階級を、コゼルスク、スタロベルスク、オスタシュコフの3か所に収容した後に、「カチンの森」に連行し処刑し埋めた。
家族たちも財産没収の末に国外追放。スターリンはジュネーブ協定署名を拒否していた。

独ソ戦が始まった後の1943年4月13日、ドイツ・メディアはカチンの森で数千のポーランド将校の遺体を発見したことを発表。国際医学調査委員会を招いて現地調査。

法医学者たちは気づいた。将校たちが冬服を着ていること。死後3年以上経過していること。ナチは処刑したら金歯など貴重品を剥ぐのにカチンの遺体はそのままなこと。弾丸はドイツ製だが旋条痕がソ連製銃によるものであること。創傷がソ連製銃剣によるものであること。すべてソ連による犯行であることを示していた。犠牲者のほとんどが後ろ手で縛られ頭部を正確に撃ち抜かれていた。
(激グロ現場写真を掲載しているのだが、写真が不鮮明なので耐性のある人ならなんとかなるかもしれない。)

この本では1940年3月5日「最終的解決」に署名した7名の局員、スターリン、モロトフ、ベリヤ、カガノーヴィチ、ヴォロシーロフ、カリーニン、ミコヤンの名前を挙げて責任者として糾弾。もちろんそれを粛々と実行したNKVD(KGBの前身)も犯人。

最悪なのがこの事件をソ連は半世紀以上認めていなかったこと。ソ連消滅によってエリツィンが認めるまでずっと隠ぺい。
戦後のニュルンベルク裁判で、ナチスによる犯行とされていたカチンの森事件に疑問を持つ人々が出てくる。疑問を持ったソ連の検察官ゾーリャはニュルンベルクの自室で死体となって発見。これはベリヤによる暗殺。ゾーリャの死を知らされたスターリンは「犬のように埋めればよい」と命令したとされる。疑問を持つこと自体が党と国家への裏切り。

ソ連に気を遣うチャーチルもルーズベルトも真相をほぼ知りながら黙殺。相当に罪深い。

現地調査を担当したナヴィール委員会のパルミエリ教授(ナポリ大学)は証拠を自宅で保管し隠し持っていた。この教授も戦後ずっとイタリア共産党に監視され逐一クレムリンに報告されていた。授業中にも左翼学生から怒鳴られ糾弾され、教授会からも教授団から外すように要求されたりと不当な扱い。酷い。

ソ連はゴルバチョフに至るまで国家機密としてカチンを隠蔽。カチン事件を掘り起こすこと自体が反ソだと喚き散らす。嘘をつくやつの声はデカい。
カチン虐殺事件後の歳月に作成されたソ連の内部資料は、ソ連指導者によるオーウェル的な二枚舌の完璧な例である。かれらはこの件にかんするみずからの責任を意識しつづけていたにもかかわらず、何十年にもわたり、虐殺の罪を問われれば「誠実」な憤りをあらわにして否定してきた。このようにして、たとえば1972年にソ連政府はイギリス政府につよい圧力をかけて、ロンドンのポーランド移民によるカチン犠牲者追悼記念碑の建立をやめさせようとした。イギリスはそれに応じ、ポーランド移民にたいしてロンドン市中心部の追悼碑音流許可願を却下した。さらに私有墓地で追悼碑が建立されることになると、イギリス政府は政府関係者や軍関係者に追悼碑除幕式への参加を禁止した。
ソ連国民のほとんどは「ナチスの仕業」という国家プロパガンダを信じていた。だが一部知識人は、ソ連政府がカチン地域を立ち入り禁止にしていること、国際調査団を拒否していることからソ連当局の犯行だと疑っていく。

この本を読むと、元KGBのプーチン、ラブロフ外相、国連大使たちが無責任で的外れな言い訳と話のすり替え(しかも声がデカい)に終始することが不思議な事ではないとわかる。ロシア人は昔からそう。

ロシアからシュタウフェンベルク大佐のような人物が現れてプーチン派をやっつけることを期待する人もいるのだが、それは望み薄。今のロシア人はほぼ全員、目立たず声をあげずしてスターリン時代を生き抜いたDNA。反抗するような性格の人はほぼ皆無。ロシア知識人と一般市民との間には大きな断絶がある。たぶん両者は言葉も通じない。交流することもない。

ロシアに対して最も強い抗議をしているのがイギリスのジョンソン首相。ロシアが今までやってきたことを一番よく知っているのがたぶん英国。

PS. 2010年4月にポーランド政府専用機がカチン事件70周年追悼式典に向かう途中墜落し、カチンスキ大統領夫妻を始めとする政府要人たち乗員乗客96名全員が死亡する大惨事が起こっていたことを初めて知った。さらに、カチンスキ大統領が双子で、兄弟共に政治家だったことも知った。

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