講談社現代新書2520「平将門と天慶の乱」(乃至政彦 2019)という本を読む。著者は香川出身の歴史家だというがよく知らない。
平将門の名前は誰でも知ってるのだが、関東で独立国の王のようにふるまって朝廷に反乱を起こした人としか知らない。神田明神と大手町の首塚は知ってるけど、具体的にどこを拠点にしていたのかも知らない。
平将門を主人公にした小説を探しても吉川英治、海音寺潮五郎ぐらいしか見当たらない。何も知らないからこそ読む。
著者はまず平将門の祟り伝説が後世の後付け二次創作らしいことを指摘。大蔵省での連続不審死とか、進駐軍が駐車場にしようとしたらブルドーザー運転手が死んだとか、強引なこじつけだったらしい。
そもそも将門は地域で敬愛される祭神だったのだが、そのイメージを一新させたのが昭和63年の映画「帝都物語」?!以後、将門は祟る怨霊イメージとなってしまった。そんな最近のこと?
そして著者は「将門記」を疑いの目で読み解く。作者の立ち位置に気を付けて。この時代の人は少年期の記録など何もない。有名な人ですら出生年も怪しい。承平に始まる坂東での私闘、訴え、戦闘、そして被害者と加害者が入れ替わり、世論や空気で善と悪が入れ替わる。歴史は勝者がつくる。
将門を討ったのは朝廷(朱雀天皇)の調伏祈祷?鏑矢が中ったとか本当か?結果、天照大神の格が八幡神より上になった。
戦後の論功行賞で出世した平貞盛、藤原秀郷、源経基、平良文といった人々の詳しい経歴すらわからない。ただ、構成の人々や子孫がその功績を盛った。いろんなエピソードを付け加えた。結果、平将門の実像はぼんやりしたまま。
ちなみに、日本が滅ぼした帝国は坂東の将門新皇が最初で最後?!
一番驚いたのが終章。神田明神は平将門を祭神としていても、実は何も関係ない地?!
平将門は下総国豊田郡が地元で死没地。なのに将門が江戸で祀られた理由の説は①「疫病流行による合祀説」②「将門首級飛来説」③「相馬党埋葬説」。
①は延慶二年(1309)、豊嶋郡柴崎村で疫病が流行る。将門の祟りと恐れられる。時宗の開祖他阿眞教が将門に「蓮阿弥陀仏」の法号を贈り、荒廃していた神田明神と合祀したという話。社伝にもそう書かれているのだが、この話は江戸期以前の記録がない。17世紀以降に広まった話らしい。
②は万治年間の仮名草子作家浅井了意の創作したオカルト。胴体だけが歩いてやって来たという話もある。平貞盛に左目を射抜かれた将門の姿から「かため明神」となった。神田明神には将門の「からだ」が訛ったという俗話もある。
③は京で鳩首になった将門の首を、縁のあった相馬党が朝廷に懇請して引き取り、江戸上平川で供養し、近くの井戸で洗い清めて埋葬したというもの。これも死後数か月たっていた首が原型をとどめていたとは考えにくい。わざわざ洗って江戸に埋葬するのもおかしい。
神田明神は江戸城拡張工事のために慶長と元和の2度遷座されて今の位置にある。いつからあったのか?誰を祀っているのか?もう何もわからない。
江戸の人口増加につれて格があがっていった。そして今、あんなに立派な社伝と随神門がある。なのに正体不明。
将門塚は秀吉に追放された陰陽師たちが慶長年間に行人火定(集団焼身自殺)した場所?!住民たちが人骨と灰を埋葬しそこに塚をつくった(関東大震災で消失)らしい。その記憶があって、唱門塚→声聞塚→将門塚と転じた?将門塚と呼ばれるようになったのは明治から?!
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