2021年6月10日木曜日

倭の五王

中公新書2470「倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア」(2018 河内春人)を読む。
自分、松本清張「空白の世紀」を読んで以来、邪馬台国と並んで一番関心の高いジャンル。
高校生ぐらいのときは中公新書とかとてもじゃないけどレベル高くてついていけなかった。今では気軽に流して読むw

邪馬台国が使者を送ったのを最後に、古代日本史には文字の記録がすっぽり抜け落ちた期間が150年ある。宋書倭国伝に書かれた「倭の五王」の遣使まで、日本の4世紀から5世紀、古墳時代には文字で書きこ残された記録がない。5世紀以前の日本の姿は古代中国の歴史書か考古学に頼るしかない。

「讃・珍・済・興・武」と記された五王とは誰か?「讃・珍」と「済・興・武」の間の属性に梁書と宋書の間で揺れがある。なんだこれは?
讃は仁徳で武は雄略じゃないかと昔から根強い。

それらを知るためには当時の東アジア情勢を知る必要がある。150年間、倭国も乱れていたのだが、朝鮮半島も華北も倭国に関心を持ってる場合じゃなかったほどの戦乱の時代。五胡十六国時代とかいう単語、名前を聞いたの高校世界史以来w
そして、北魏と宋、南北朝時代、高句麗、百済、新羅、そして倭のパワーゲーム。

倭王武の有名な上表文「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」が美文で文化レベルが高すぎる…という論議が昔からあったということを知らなかった。これは五経などからの引用パッチワークで作られているわけだが、当時の倭にこれを書ける人がいただろうか?五経はあっただろうか?
この著者はあっただろうと言う。戦乱の時代で亡命者もいた。書物も持ってやって来てたかもしれない。

この本で一番面白かったのが第4章「倭の五王とは誰か 比定の歴史と記紀の呪縛」という箇所。自分も「倭の五王」というと、最大の関心は昔からそこ。

「讃・珍・済・興・武」が日本の歴代天皇の誰か?という問題を最初に認識したのが室町時代。禅僧瑞渓周鳳(1391-1473)は中国の史書と日本書紀の年代を機械的に並べて比定した。だが、日本書紀の年代は編纂時に操作されている。それではズレが生じる。

江戸時代の医者で国学者松下見林(1637-1703)によれば、「讃」は履中天皇の諱「イザホワケ」の読みを省略したもの。「珍」は反正天皇の「瑞歯別」の「瑞」の写し間違い。「済」は允恭天皇の「雄朝津間稚子」の津が済になり、「興」は安康天皇の「穴穂」を誤ったもの。「武」は雄略天皇の「大泊瀬幼武」の省略とされ、これが現代まで定説。漢字の誤りと省略の二種の方法を混在させた説明。
新井白石の漢字の発音も交えたカン違いの説明はさらに苦しい。本居宣長は中国の史書をデタラメと無視。

明治の英国外交官ウィリアム・ジョージ・アストン(1841-1911)は天皇の死後に送られた諡号が生存中に使われた名前と一致するはずがないことを指摘。宋書倭国伝の五王の続柄記載に注目。系譜の類似性から読み解くという、これまで日本人がやらなかった方法で比定。「讃・珍・済」は履中・反正・允恭、「興・武」は安康・雄略。

著者は5世紀の倭人の名前の常識から見て、「武」が「タケル」と訓読みされた可能性が低いことも指摘。有名な稲荷山鉄剣は「乎獲居(ヲワケ)」、江田船山古墳出土太刀では「无利弖(ムリテ)」だったように、倭人の名前は一つの音に漢字一字をあてるのが一般的。
「武=タケル=雄略」はもっとも確からしいと思っていただけにショック。

明治以降は天皇研究自体がタブー化。戦後までこの研究は停滞。
藤間生大「倭の五王」(1968)では、珍と済の間に続柄記載がないことから、両者に血縁関係がないか、済がそのことを隠した可能性を指摘。「讃・珍グループ」「済・興・武グループ」という「二つの王家」論が登場。5世紀の倭国王が必ずしも血縁的につながっていない可能性を示す。
親子、兄弟での王位の継承だけでなく、リーダーとしてふさわしいものが王に担ぎ上げられたのが5世紀?だからこそ継体(応神5世の子孫)は越からしれっとイン。

文字のない時代に王の系譜はどこまで正確に伝わるのか?アフリカの部族の首長の例まで取り出す。事績や系譜的位置が詳しく知られている首長は傍系継承で、名前と継承順位だけしか記録が残っていないものは直系継承の例が多い点を指摘。これ、古代天皇の系図と同じ。

記紀の描いた天皇の系譜が歴史の彼方へ遠ざかったぼんやりしたものである可能性を指摘。たぶん続柄もぼんやりゆるやか。別のグループが王となったとき、きっとその祖先たちも王統に組み込まれてる。

つまり、「讃・珍・済・興・武」を記紀の天皇たちと比定しても得られるものはほとんどない。倭の五王は記紀に拘泥せず、5世紀の歴史を切り離して考えよう…という、画期的で刺激的な結論。

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