夏目漱石「吾輩は猫である」(明治39年)は昔20ページほど読んで挫折したことがある。
文豪の中の文豪の代表作を、今回、人生で最初で最後になる覚悟で読み通した。ちくま文庫夏目漱石全集1で読んだ。
前回読んだとき、なんだこれは?!と思った。だが後年、これは落語として読めばよいのでは?と思い直した。
名人たちは、落語というのは一言一句聞き漏らさないという集中力で聴くな!と常に言っている。
あれ?「吾輩は猫である」ってこんなだっけ?と戸惑う。猫目線なので読みづらい文体になっているんだと思っていた。あえて誤字だらけなのかと思ってた。
明治の文体は漢字のアテ方がアバウト。表記の揺れもあってとても読み難かった。だが、このちくま文庫版は表記がすべてキッチリと現代語仮名遣いに統一。
「吾輩は猫である。名前はまだない。」というあまりに有名な書き出しで始まる。だが、そのほとんどは飼い主の作家先生と来客の長くてくどいスノッブ会話。
明治時代の風俗と学者先生たちの衒学的な雰囲気がよくわかる。やたら泰西の学者やら偉人やら作家やらの名言なんかを知ったかぶりで引用し相手を飲み込もうとする。読んでも読んでもそれ。ひたすらそれ。
たまに読んでいて面白い会話もある。婦人同士の会話で「飄然」という言葉の意味が分からず、人の名前だと思って続けている箇所はまさに落語の与太郎噺。
だが、面白い箇所はほんの少し。
主人である苦沙弥センセイがとてつもなく偏屈で気難しくめんどくさがり。夫人とはギスギスした噛み合わないケンカばかり。いろいろ呆れる。明治時代の学のある男は、女というものをバカにしきっている感が出まくってる。
あと、明治の人々は作家先生であってもお金をそれほど持っていない。
小説というより日記エッセイ雑文だった。夏目漱石先生の性格と明治の風情を理解するうえで重要な資料かもしれない。
とにかく長かった。ページをめくる気力が失われた。「俺は読んだ」と言いたいがために読み通したが、充実感はそれほどなかった。
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