2015年8月15日土曜日

吉村昭 「戦艦武蔵」(1966)

吉村昭のドキュメンタリー「戦艦武蔵」(新潮文庫)を読む。戦艦武蔵をつくった現場を描いた本。

日中戦争の最中、呉の海軍工廠では1号艦が、長崎の三菱重工の造船所では2号艦という前例のない巨大な船が極秘裏に建造されていた。海軍の中枢にいる人間しか知らない最重要国家機密。1号艦とは「大和」、2号艦とは「武蔵」のことだ。

前例のない巨大戦艦を造る。それは技術の面でも大変だが、コストの面でもとてつもない浪費。

武蔵を建造中の長崎の街は重苦しい雰囲気に包まれた。造船所で何が起こっているのかわからないが、あきらかに何かが起こっている。

憲兵や特高警察がいたるところにいる。長崎の港を見下ろす山々にも。造船所方向に写真でも撮ろうものなら連行されて厳しい取り調べを受ける。長崎に暮らす外国人たちも徹底した監視下に置かれた。皆、造船所の方向へ顔を向けることも避け始めた。

この計画に参加した技術者の人々は誓約書に署名させられ、誓約を破ると海軍によって裁かれる。
超極秘国家機密の設計図が1枚紛失した事件では関係者顔面蒼白の事態で建造が2ヶ月遅れた。重苦しすぎる現場から外してもらうために少年製図工がそれと知らずに起こしたちょっとした小さな事件だったのだが、取調べを受けた技術者たちは精神を病んだほどの厳しい追求を密室で受けたという。少年は満州へ送られたという…。日本の暗黒史だな。

極秘でこれほど巨大なものを造るために、覆いが必要なのだが、棕櫚製のすだれで覆うという苦肉のアイデアは、九州四国の海苔養殖の現場から棕櫚製の網が消えるという異常な事態を引き起こす。鉄鋼も木材も長崎に集められた。対岸の英米総領事館の前に目隠しのために倉庫も新たに建造する念の入れよう。

長崎市民の誰も武蔵を目撃していない。長崎から呉へ向かう武蔵を目撃した老漁師に話を聴いた吉村氏だったが、「自分から聞いたと言わないでくれ」と言われたという。30年経っても皆固く口を閉ざす。

新造艦の進水がいかに難しいかわかった。だが、そこは活字だとイメージしにくい。前例のない巨大戦艦の場合は事前に入念な研究がされたのだが、それでも関係者はギリギリまで冷や汗。

艤装と手直し、そしてテストの後に引渡し。そして本書の後半で実戦へ。この戦艦がたどった運命は広く知られた通り帝国海軍のたどった敗走そのもの。重油がもったいないと終始もったいぶって温存。空母と空母が航空機で戦う時代になっていた。ただ巨大な図体ではいずりまわって逃げ回る。その巨砲はついに役にたたなかった…。

「この船は絶対に沈まない」「この戦艦が沈むときは日本が滅ぶとき」って初めて見た者はみんながそう思った。これだけ多くの人々の苦労で完成した武蔵もやがて満身創痍になり沈む…。

運よく救助された乗組員たちの船も敵潜水艦の攻撃で撃沈。内地に帰れた者も機密のために小島に収容されて監視下に置かれ、マニラ防衛に回った者のほとんども戦死…。吉村昭は武蔵竣工から30年後、貴重な記録と証言から1冊の本にした。建造にかかわった人々も自分のした仕事のみしか知らない。誰も全体像を知らなかった。

ひたすら客観的に即物的に。そこに軍人の心の内面などは一切書かれない。あれほどの大きな犠牲を払った戦争は一部の人々が引き起こしたものではない。多くの人々のとてつもない熱狂とエネルギーがそこにあった。

2 件のコメント:

  1. 吉村昭って緻密ですごいですよね。司馬遼とか清張に比べると地味な印象だけど、誠実で厳しい人だと思う。

    ああいう論理的な人にとって、戦艦武蔵建造という非論理的な熱狂は、興味深い出来事だったんでしょうね。

    震災後に「三陸海岸大津波」を読んで衝撃でしたが、いまこういうの書ける人材も環境もないのではと不安にもなりました。

    この時期、新聞やテレビでお涙頂戴の戦争秘話が濫造されるけど、観てると何かが覆い隠されてるなって気がする。

    真相に近づくには、しっかりとした作品に触れねばいかんなとつくづく実感します。

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  2. 「三陸海岸大津波」は他にだれも書いてないことを書いていて、吉村昭の偉大さに注目されたのはよかった。
    この人は人物の内面をウェットに書き連ねないとこが好き。
    司馬はほとんど太平洋戦争についての歴史小説を書いてないので、これからは吉村昭をどんどん読んでいきたい。

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