2014年9月4日木曜日

ど素人がいきなりクラウゼヴィッツを読む

この夏、クラウゼヴィッツの「戦争論」をゆっくりと読んでいた。有名な本だし、以前から一度は開いてみようかと思ってはいた。岩波文庫で探していたのだが、108円で淡徳三郎訳の1965年徳間書店版(1986年の第30刷)がそこにあったので衝動買い。

この本は昔から読者を悩ませる難解な本だとは聞いていたのだが、やっぱり早々に自分を見失った。困惑の連続だった。

カルル・フォン・クラウゼヴィッツ(1780-1831)はプロシャの貴族に生まれ、ナポレオン戦争の時代を生きた軍人。死後に婦人により未完成のまま出版された「戦争論」は以後、世界中で翻訳され読まれている。

自分はてっきりナポレオン戦争に従軍した実戦経験から書かれた兵法書のたぐいだろうと思っていた。貴族の子弟のほとんどが将校になる時代に、この著者も士官学校でヒマをもてあまして哲学書を読みふけった結果、それ自体が研究対象となるような、こんなにも難解な本を書いてしまった。

「戦争は政治の一手段である」 

この本では個別の戦闘についてはほとんど書かれない。一貫して政治としての戦争全体が書かれている。政治学の哲学書だった。

第1篇「戦争の性質について」、第2篇「戦争の理論について」、第3篇「戦略論」、第4篇「戦闘」までは本当に読んでいて苦痛だった。哲学書のようなよく意味のわからない、回りくどい自説の説明が延々とつづく。
数行読んではまた数行戻るの繰り返し。「戦争とは何か」とか。「将軍に必要な資質とは?」といったことが書かれているのだが、なんだかあたりまえのことが書かれているように感じた。精神的な話が多い。

第5篇「防禦」は、まさに現在の日本が置かれた立場から「離島防衛に役にたつのかな?」と期待したのだが……、この著者は繰り返し「攻撃側よりも防禦する側のほうが有利」と述べる。

「陽動作戦は無意味だからしないほうがいい」とか、「予備軍を小出しにするのは無意味」、「決定的な大会戦に戦力を集中するのが戦略上大事」、「追撃はしっかりやれ」といったことが書かれている。なにせナポレオン戦争の時代、銃と大砲と馬と白兵戦の時代。航空機もミサイルもない時代の話なので現代においてそのまま役に立つとは到底思えない。

この時代のヨーロッパは貴族同士がお約束の会戦を行い、州郡を占領して講和を有利に進めるのが戦争の目的。同じにできない。

小国が大国に先制攻撃をするだとか、国民の協力だとか、帝国陸軍もこの本に影響を受けてしまったんだろうと思った。ハワイとミッドウェイで連勝して講話できればよかったのだが、戦況が不利になっても、最終的に本土決戦があることに将校たちは期待していたのもこの本の影響?ベトナムやアフガンのように、山や谷の奥に引き込めば相手を撤退に追い込むほどの善戦はできだろうと思われる。だが、日本の戦争は同盟国はいなくなり、想定外の原子爆弾を2発も落とされ、講和の仲裁を勝手に期待していたソ連に裏切られ、孤立無援。「首都を奪われたぐらいで不利な講和をするな」ってクラウゼヴィッツは言ってるけど、これだとどうしようもない。

とにかく読み進めるのが苦痛な本だったが、全部読み通した。はっきり言って、要点だけ解説した本で充分というのが感想。

第1篇第1章はもう一度読み返した。原書の雰囲気は感じられた。学生のころ「資本論」を読まされたのを思い出した。全然理解できない本を読むのはキツイ。自分にはそれほど役に立つ本でもなかった。
Clausewitz

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