2014年6月12日木曜日

吉村 昭 「三陸海岸大津波」

ちょっと前から気になっていた本を古本屋で見つけて買っておいた。吉村 昭(1927-2006)が40年ちょっと前に、三陸地方を歩き回って取材して書いた「三陸海岸大津波」(文春文庫)だ。自分が手に入れたものは2011年3月の震災後の増刷版。

GWに久慈から田野畑にかけての三陸海岸を見て回った後だったので、あの美しい海岸と集落、屹立した崖を思い浮かべながら読んだ。

吉村昭がこんな本を書いていたことにまったく気づいていなかった。三陸海岸は有史以来、何度も津波の被害に会っている。

当時40代だった吉村氏がこの本を上梓したのは昭和35年のチリ津波から10年ほどたったころ。
三陸海岸に壊滅的な被害を与えた明治29年の大津波、そして昭和8年の大津波を主に取材している。

明治29年6月15日、旧暦の端午の節句の蒸し暑い夜8時過ぎに起こった地震と、それにつづく津波は世界史上2位の大津波だった。26,360人が亡くなった。
数名の生存者を残して全滅した集落が多かった。当時の新聞の挿絵などみると、まるで打ち上げられた魚が並んで横たわっているように、大量の死体がある。男女とも裸で仰向けになってお腹がパンパンにふくらんでいる。この世の地獄になっていた。

吉村氏は当時を知る古老2人に直接取材している。大変貴重な記録になっている。前兆現象、被害、救援、体験記という順序で書き綴る。コンパクトにまとまっていて、中学生でもすぐ読めると思う。

今でこそリアス海岸の奥に点在する集落をつなぐ道路があるが、当時は各集落は陸の孤島でたまに小船が行き来するだけだったので、救援物資を運ぶのも難航。

昭和8年3月3日午前2時30分すぎの地震と大津波では「冬は津波は起こらない」「晴れた日は津波は起こらない」という迷信のために被害を広げた。寒い深夜だったために2度寝してしまった人は助からなかった。波にまかれて命からがら高台に逃れても凍死してしまったという。
2,995人が亡くなった。当時は昭和の大恐慌の時代。生き残った人々も悲惨だった。

生き残った小学生たちの作文が残されていた。子ども目線で書かれた津波の記録。読むと悲しくてつらい。振り返ると2階の屋根の上に黒い波がノッと突き出していた。恐怖体験としかいいようがない。

この本は昭和35年のチリ津波のことも書かれている。地震がなかったために潮が退いても津波がくるのか疑った人が多かった。初めて経験するパターンに戸惑った人が多かった。
しかし、過去の歴史を調べると、南米での地震による津波襲来は過去にもあったのだった。死者105人。

この本は最後に、明治29年、昭和8年、チリ津波とだんだんと死者数が激減していることと、田老町の世界最大クラスの防潮堤の異様な大きさに触れてこの本は終わっている。
他の地域よりもはるかに高い津波に対する防災意識をもった田老でも、2011年に大きな被害が出てしまったことは、吉村氏にも予想できなかっただろうと思う。

2004年のスマトラ沖大地震と2011年の東日本大震災では、多くの津波映像が残された。自分は初めて津波とはどういうものか、やっと理解できたと思う。古老の言い伝え話を聴くだけではイメージできなかっただろう。

次に大津波が三陸を襲うまでには、最悪に最悪が重なる想定でいないといけないと思う。東南海地震と津波にも。

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