2012年2月29日水曜日

越智志帆と「Hail Holy Queen」そして上京まで

Superfly_talkingtock
最近手に入れたTalking Rock! 2008年7月号に、1stアルバム「Superfly」がオリコン1位、つづくツアーの発表と注目度が高まっていたSuperflyがインタビューに登場した記事を発見。昨年12月にアリーナツアーで突如披露され話題となったゴスペルソング「Hail Holy Queen」について、越智志帆が語っている箇所を見つけた。そして自分がまだ知らなかったSuperfly創世記について、とても詳しく語られているインタビューだ。インタビュアーは主幹吉川尚宏 以下一部引用
■もともと志帆さんが最初に音楽をやり始めたきっかけは、なんだったの?

志帆 最初は、中学のときに‥‥田舎の中学だから1学年に2クラスしかなかったんですけど、その学校が、なぜか音楽教育をすごく大事にするところで、よく全校合唱があったんですね。で、私はその合唱の時間が大好きで、だから音楽を聴くというよりは、歌うことの楽しさから入っていった感じでしたね。その合唱の時間が、ホントにすごく幸せで。

■ちなみに、その時はどんな曲を歌っていたの?

志帆 いわゆる合唱の定番曲ですね。「大地讃頌」とか「翼をください」とか。それをブラスバンドの生演奏に合わせてうたったりしていたんですよ。

■へー、そうなんだ。ピアノの伴奏とかではなくて?

志帆 そう。もちろんピアノだけのときもあるんですけど、ブラスバンドと一緒に盛大に行う発表会みたいなものが、やたらめったら多かったんですよね。で、ある時、先生の企画で、友達5人でアカペラをやることになって。映画「天使にラブソングを」のサントラに「ヘイル・ホーリー・クィーン」というゴスペルソングがあるんですけど、それをやってごらんと言われて、友達5人だけでステージに立って、初めて全校生徒の前で歌ったんですよ。

■なるほどね。みんなと一緒に歌うのではなくて、みんなの前で歌ったわけだ。

志帆 そう!もう、ドッキドキで(笑)。でも歌い終えたときに、ものすごく大きな拍手がもらえたんですね。で、そんな大きな拍手をもらう経験なんて、もちろんなかったから、メチャメチャ感動して、人前で歌うのってなんて気持ちがいいんだろう!と思って。そこから漠然と〝シンガーになりたい!〟と思ったんですよ。

■そうなんだ。じゃあ、憧れのアーティストがいたり、誰かの音楽に影響を受けたりとか、そういうのではなくて、大勢の人の前で歌って、その気持ちよさを体験して、そういう想いになったんだ。

志帆 そうなんです。で、高校生になると‥‥ちょうどその頃、ウルフルズとか、スピッツとか、ミスター・チルドレンにジュディ・アンド・マリーとか、バンドがすごく人気で。そういうバンドをテレビ番組で見ているうちに、今度はバンドのフロントマンという存在にすごく憧れ出して。

■トータス松本がいて、マサムネ君がいて、桜井君がいて、YUKIちゃんがいてと(笑)。

志帆 そうそう!真ん中でバンドを引っ張って歌っている姿にすごく憧れて、バンドのフロントマンになりたい!と思うようになって、そこからはもう、毎日が妄想の日々ですよ(笑)。

■妄想の日々!(笑) しかも今治で(笑)。

そう、今治で(笑)。授業中も先生の話を聞かずに、私がステージで歌っているところばかりを頭に描いて、ニヤニヤニヤニヤしてましたね(笑)。で、とりあえずバンドがしたい!と思って、学校に軽音楽部があれば入ったんですけど、田舎の学校だから、そういうのもなく、クラスの男の子でギターやベースが弾ける子はいたんですけど、その友達の間ではMONGOL800とか、ハイスタンダードとか青春パンクがもてはやされていて、私はあまり興味がなかったから、なんか違うなあと思って。で、とりあえず、今治にひとつだけライブハウスがあったので、メンバー募集をしようと思って(笑)、〝歌が歌いたいから、誘ってください〟みたいなことを書いて(笑)、紙も貼りに行ったんですよ。すると、一年後ぐらいに連絡があって。

■一年後?(笑) なんかものすごい遠い国に貼りに行ったみたいな感じやね(笑)。

志帆 ハハハ(笑)、そうですね。

■しかも、一年間も貼ってくれていたんだ(笑)。

志帆 そうなんですよ(笑)。そこのライブハウスのおじさんがすごくいい人で。で、松山市のバンドから連絡があって、そのバンドもボーカルを探しに、わざわざ今治まで来ていたみたいで。普通のポップス系でオリジナルをやるバンドだったんですけど、その人たちと一緒にやることになって。それが高校2年の終わり頃ですね。そして初めてライブハウスにも出て、やっぱライブは楽しいぞ!とか思いつつ。他にも、ちょっとしたしょぼい感じの野外イベントとかにも出て(笑)。

■ハハハ(笑)。町おこし的な感じの?(笑)

志帆 そうそう(笑)。一度、町のなんとかフェスティバルみたいなものに出たことがあるんですけど、広いグラウンドの中で、片方で私たちが演奏してて、もう片方で餅投げみたいなのがあったんですよ(笑)。

■ハハハ(笑)。

志帆 で、こっちのステージにまで、餅が飛んできたことがあって(笑)。あれはちょっとショックやったんですけど(笑)。

■ハハハ(笑)。

志帆 うるせーぞー!みたいな感じで(笑)。私も負けずに歌った感じですけど(笑)。で、高校を卒業して松山の短大に入って、そのままバンドを続けて。で、当時のベーシストが大学の4年生で、彼の大学にすごく有名な音楽サークルがあって、彼はそこにも所属していたんですね。で、そこに所属するとイベントに出やすくなるから一緒に入ろうよと言われて、部外者だったんですけど私もそこのサークルに入って。

■え?入れたの?(笑)

志帆 入れたんですよ!(笑)、ハハハ(笑)。

■スゴイね!(笑)、おそるべし愛媛県(笑)。

志帆 なんか、ゆるいんでね(笑)。で、そこで元メンバーの多保君と出会うんですよ。

■あ、なるほどね!ここで田保君が出てくるわけだ(笑)。

志帆 そうなんです(笑)。で、そのサークルで春に新入生歓迎イベントがあって、イベントでは先輩と一緒にバンドを組まなければいけないという決まりがあって。多保君は2つ上の先輩なんですけど、面識もないまま、無理矢理に組まされて(笑)。その時にフィンガー5とかローリングストーンズとか、遊びでいろいろカバーしたんですね。すると、なんかそれがすごく好感触で。多保君のギタープレイと自分の歌との相性がすごくいいんじゃないかなあと感じて。あと、私はローリングストーンスとか、それまで全然聴いたことがなくて、そこで初めていわゆるブルースを消化したロックの曲を歌ったんですけど、ホントに興奮して。その時に、〝カッコいい〟というニュアンスを、そこで初めて知ったんですね。

■なるほどね。それまでは歌っていて、どちらかというと、〝気持ちいい〟というニュアンスが強かったわけだ。

志帆 そう!まさに〝気持ちがいい〟とか〝感動する~!〟とか、〝泣けてくるー〟みたいな感覚で、〝カッコいい〟というワードは自分の中からは出てこなかったんですよね。だからすごい衝撃的で、なんてこの時代の音楽はカッコいいんやろう!と思って。そして、もしかしたら私、この音楽がすごく好きなのかも知れない!とも思って。で、そこから、多保先生が実は60'Sや70'Sの音楽マニアで。

■おっと、いつのまにか多保君が多保先生になってるがな(笑)。

志帆 ハハハ(笑)。でもホントに、ある意味で先生と言うか、それをきっかけに多保君がMDにその時代の音楽をいっぱい詰め込んで、シリーズ化して、私にくれたんですよ。

■あ、そう。シリーズ化して!(笑) 監修=多保先生、みたいな感じじゃね(笑)。

志帆 そう!(笑) マジで十数シリーズあったんですけど(笑)。で、そのMDをもらっては教科書のように聴いて、気に入った曲があればそのCDを買いに行って。

■へー、なるほどね。それはブルースや、ソウルや、サザンロックや、フォークロックに、ファクロックなどなど、といった感じ?

志帆 そうですそうです。最初にわりとメロディがキャッチーな曲を集めてくれて、わかりやすいものからくれるんですけど、そこからどんどんマニアックになっていって(笑)。だから多保君がきっかけで60'Sや70'Sの音楽をどんどん聴くようになりましたね。

■なるほど。まさに多保先生やね(笑)。

志帆 そうなんです(笑)。しかも、随分昔の音楽のはずなのに、ものすごく新しい!と思えたんですよね。私自身が今まで聴いたことのない音楽だったし。それも含めてすごく新鮮で。

■で、そこから多保先生と一緒にバンドをやっていくことになるわけだ?

志帆 そうなんです。私がやっていたオリジナルバンドは60'Sや70'Sの音楽とは違ってJ-POPに近いものをやっていたから、次第に違和感を感じ始めて。結局そのバンドは解散することになって。最後のライブの打ち上げの席で多保君がSuperflyをやらないか?と誘ってくれて。Superflyは、もともと多保君がボーカルでやっていたバンドなんですよ。

■あ、そうなんだ。

志帆 で、自分がSuperflyでボーカルをやるのに限界があると思ったらしく(笑)、それもあって私を誘ってくれて、前のバンドの解散ライブのその日に入りました(笑)。それが20歳の頃ですね。

■Superflyという名前は、カーティス・メイフィールドの曲にあるよね。

志帆 そうです。多保君がバンドを作った時に、たまたまカーティスの、この曲を聴いていたらしく、シンプルなバンド名にしたかったので、それに決めたという感じで。

■じゃあ、多保君と一緒にやるようになって、そこから結果的にデビューへと繋がっていくわけだ。

志帆 そうなんです。ただ、最初は私と多保君と、もう一人ギターがいて、ドラム、ベースの5人編成で、その当時から今とやっている音楽は、ほとんど変わってないんですけど、やっぱこういう音楽性って、なかなか一緒にやりにくいというか、愛媛が田舎というのもあると思うんですけど(笑)、あまりわかってくれる人がいなかったんですよね。ストーンズすら好きな人がいなかったし。だから、メンバーの入れ替わりも激しくて、そういう中で、04年の春くらいに「マニフェスト」(07年8月の2ndシングル)を自主制作で作ったりもしつつ、知り合いの紹介で東京の下北沢で一度ライブをやる機会があって、その時はメンバーがギリギリいたので(笑)、車で東京まで行ってライブをしたんですけど、その時に、なんかここで勝負したい!と強く思ったんですよね。で、私と多保君と、ホントはベースの3人で行く予定だったんやけど、上京直前にそのベースの人がやめることになって、結局は多保君とふたりで東京に出てきたんです。

■それが資料によると06年の春。

志帆 そうですね。で、上京したのはいいんですけど、東京に行けば私たちと音楽の好みが通じ合うプレイヤーが、いっぱいいるだろうと思っていたんですよ。そしたら全然いなくて(笑)。愛媛よりもいなくて(笑)。 ~一部省略~

■じゃあ、勝負しようと思って東京に出てきても、すぐにバンドのメンバーは見つからず?

志帆 そうなんです。知り合いも全然いなくて、することがないから、とにかく曲をいっぱい作ろうということになって、多保君は打ち込みが出来るんで、そこから80曲ぐらいデモを作って。で、それをレコード会社やプロダクションに送ったり配ったりしているうちに、だんだん業界の方と知り合うことが出来て、それでデビューに至ったという感じなんですよ。

■そうなんだ。ライブをガンガンやっていたわけではないんだ。

志帆 そうなんです。ライブ自体はもちろん大好きなんですけどね。

■僕はなんとなくライブをたくさんやってきて、そこで声をかけられたのかなとイメージしていたんだけどね。

志帆 それが違うんですよね。だから、上京してデビューするまでずっとライブが出来なかったのが、ものすごいストレスで。

いや~、まだ知らなかったことがあったんだな。Superflyはデビューしてあっという間にブレイクしたイメージがあったけど、こういう苦労があったんだな。餅が飛ぶ話は自分にも衝撃(笑)。そして、最後にもう少しだけ

もしかしたら私たちがやろうとしている音楽は、受け入れられないかもという気持ちはなかったのか?という質問に対して
志帆 それはね、正直、ありました。でも、逆に少ないぶん、私が感じたのと同じように、新しいと思ってもらえるんじゃないかなという気もしていたんですね。こんなに気持ちよくてカッコいい音楽なんだから、きっと受け入れてくれる人がいるはずだと。でも実際にデビューしてみると、自分が思っていたほどのリアクションがなくて(苦笑)、やはり受け入れられにくい音楽なのかなあとは思いましたね。新しいことをやるには時間がかかるのかなあと‥‥。でも徐々にですけど、シングルを出すたびに一歩一歩前に進めている感覚はなんとなくあるので、だから焦らずに、いいものを作って頑張っていこうという気持ちですね。
このインタビューはまだまだ続く。アルバムのこと、多保が製作に回ったときのこと、自身の性格‥。ロッキングオンJAPAN誌のもの以上に多くの知識を得たインタビューだった。ぜひ入手をオススメする。

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