中公新書2828「加耶/任那 ― 古代朝鮮に倭の拠点はあったか」仁藤敦史(2024)という本があるので読む。著者は国立歴史民俗博物館の教授で日本古代史の専門家らしい。
「加耶/任那」って中学高校日本史でもあまり教えてくれない。なのでこういった本で知るしかない。日本古代史に関心のある人じゃないとよまないかもだが。
日本の古代史本を読んでいると、古代朝鮮史がとても重要。この本は百済でも新羅でも高句麗でもなく金官とか加羅とか加耶、3世紀から6世紀にかけて存在した日本では「任那」と呼ばれた小邑連合を扱う。その前は「馬韓・辰韓・弁韓」の弁韓と重なる地域。朝鮮半島南部、洛東江の流域。
加耶は中国にも遣使するような統一国家成立の直前で滅亡したため、まとまった史料が残っていない。
この本では日本と韓国、中国における「加耶/任那」研究の歩みをささっと解説した後に、百済、新羅、高句麗、そして日本側の資料から解説。「加耶/任那」のことはほとんど知らないことばかり。
1949年に刊行された末松保和の「任那興亡史」は、日本書紀で使われた百済記由来の干支を信頼した池内説を継承発展させたものである。本書は長く戦後の日韓関係史の通説的位置を占めてきた。任那の初見記事は「日本書紀」崇神紀に「任那国」から使者が来朝したとき。
任那の国名由来は垂仁紀によれば、意富加羅から御間城(崇神)天皇の名を国名とするように説いたから?!これは荒唐無稽な話らしい。
神功皇后の「加羅七国平定」が嘘の記事。そしてかつて日本でよく通用してた「任那日本府」の正体へと迫る。
広開土王碑文によれば400年の段階で「任那加羅」(金官)や「安羅」に倭兵の出撃拠点が存在したことが想定される。
あ、そこは疑問の余地はないのか。
任那日本府は朝鮮半島南部における支配の拠点だったという近年までの通説は現在、明確に否定されている。日本府の内実は、倭からの使者、倭系の在地豪族集団を合わせたもので、強固な組織は存在しなかった。実際は倭系加耶人を中心として、百済にとって望ましくない勢力を総称したものにすぎない。
ああ、そうだったのか。
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