2024年10月1日火曜日

森まゆみ「大正美人伝 林きむ子の生涯」(2000)

森まゆみ「大正美人伝 林きむ子の生涯」(2000 文芸春秋)を読む。森まゆみせんせいの本を久しぶりに読む。

黒岩比佐子「パンとペン」を読んでいて、「大正三美人」の1人に日向きむ子(林きむ子)という人がいることを知った。
大正三美人で柳原白蓮と林きむ子は美人だと思う。現代人の感覚からすると林きむ子が一番美人な気がする。(九条武子と江木欣々は美人らしさが伝わってくる写真がないように思う)

森まゆみ氏も学生時代に買った文芸春秋デラックス「目で見る女性史・日本の美人たち」(昭和49年)に掲載されていたたくさんの美人写真で、きむ子がいちばんの美人だと感じたという。

華族で「不幸な美人」だった柳原白蓮や九条武子と違って、日向きむ子は洋装ですらっと背が高くハーフっぽい顔で裕福で「幸福な美人」。舞踏を習っていた弟子の証言によれば、舶来の化粧品を使っていたので他の女性と様子が違っていたらしい。
森氏が林きむ子について調べ始めた当時、すでに田端御殿時代のきむ子を知っている人は田端にいなかったらしい。

きむ子の両親から語るので、新橋花柳界の歴史も教えてくれる。きむ子の生母は義太夫・竹本素行。
新橋の花街は江戸の昔から堀に舟を浮かべた官官接待の街。江戸の公共工事負担を割り振られないように藩の江戸詰め家老たちが幕府の役人を接待。その傍らには芸者。

芝の浜の家という料亭に養女に出される。以後、三味線と琴を習わされる。
この両手にやってきたのが頭山満と明治政界で暗躍した杉山茂丸(夢野久作の父!)。杉山から和歌などを習う。

きむ子は日向輝武から求婚される。この輝武についても森まゆみは調べまくった。群馬藤岡出身だが東京専門学校に入学後(中退?)、18歳で渡米。労役しながら苦学。星亨の子分のようになる。ハワイで移民をあっせんする会社で大儲けして帰国。
きむ子は結婚後に女学校へ通いフランス語、神学、美術を学ぶ。

有閑マダムきむ子は20歳。夫の財力で本を出し、美容インフルエンサーのような存在へ。新真婦人会を結成。この会は平塚らいてうの青鞜から敵視される。「青鞜」は日本女子大出の独身インテリ令嬢が多く、新真婦人は女学校出子持ち主婦の雑誌。きむ子は評論、随筆、翻訳小説、詩、和歌、解説などを書く。

そして4女2男の6人の子ども。娘のちゑとななは神田三崎町にあったミッション系の仏英和女学校(現白百合学園)へ通い、男児は暁星。ちゑは森鴎外の長女茉莉と同じ学校で同学年。森茉莉は同級生の美人ママきむ子についてエッセイに書いているという。
美人すぎた母を持った娘たちは、傷つき心にコンプレックス。

そして夫の事業が傾く。大浦事件という収賄事件によって輝武は収監される。担当検事は大逆事件でシャカリキになった小原直検事だ。
輝武はやがて精神錯乱。日向家は破産状態。
子どもを6人抱えた30代婦人が家計の足しに始めた商売がなんと美容液販売。

輝武死後、きむ子はどうするのだろう?と世間は関心。夫の死後1年も経たぬうちに年下の薬剤師林柳波と再婚。きむ子36歳、柳波27歳。このふたりの出会いは雪の赤城山中。
林はいきなり6人の子を持つ父?そこは進んだ思想を持つきむ子。新しい夫婦関係、親子関係の実現を決心。(きむ子はさらに女児を2人)

この結婚は大正8年当時の世間に大きな反響。一周忌も来ないうちに?!きむ子は世間から批判罵倒される。女性たちのほうがきむ子に厳しい。夫を亡くしたら生涯再婚しない未亡人の美徳?!
この年、女優の松井須磨子が前年に結核で亡くなった島村抱月を追って自死。世間の須磨子への同情。その一方で幸せになる女へのやっかみ。大正時代も令和の今とたいして変わらない。

40を過ぎるときむ子は舞踏家となる。小石川で日舞の師匠となり厳しい指導。
関東大震災後、林家を野口雨情が訪問。児童唱歌に踊りをつけられないか?
えっ、「うみはひろいなおおきいな 月がのぼるし 日がしずむ」を作詞したのが林柳波だったのか!?(作曲は井上武士)

戦後の一時期は夫婦で小布施にいたらしい。娘2人を病気で亡くして失意。林柳波とは夫婦関係が破綻。昭和41年に勲五等瑞宝章。

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