2021年8月16日月曜日

中島敦「南洋通信」(昭和17年)

中公文庫の中島敦「南洋通信」増補新版(2019)を読む。

中島敦(1909-1942)は1941年7月からパラオ南洋庁国語編集書記として赴任。現地の体験から「南島譚」「環礁」を書く。そしてパラオから東京の妻子に送られた書簡、土方久功氏によるエッセイ、池澤夏樹氏による解説を収録した一冊。では順に読んでいく。

「南島譚」
  • 幸福 パラオ長老と召使奴隷の話。現実世界の幸福と不幸が夢の中では逆転。南の島でも楽園というわけにはいかない。
  • 夫婦 浮気してるのに夫には嫉妬深い淫乱妻。双方が相手と逃げればハッピー?!
  •  世界のどこでも老人は狡くてケチ?でも、死の直前には鶏をくれた…。
「環礁」ミクロネシヤ巡島記抄
  • 寂しい島 女児が生まれずに人口が急激に減っている島の話。
  • 夾竹桃の家の女 上半身裸体で赤ん坊を抱いていたベッピンサンがこっちをじっと見てる。え、パラオって他人の家の軒先に勝手に座ってていいの?
  • ナポレオン 南の島にも不良少年はいる。独領時代のパラオの子どもの名前はビスマルクとかナポレオン?
  • 真昼 ミクロネシアについてのエッセイ。
  • マリヤン 英語と日本語のできる混血美女マリヤンと内地に戻った自分。私小説短編。
  • 風物抄 クサイ、ヤルート、ポナペ、トラック、ロタ、サイパンの見聞録。ヤルートのジャボールではパナマ帽の自分とヘルメットをかぶった官吏とで島民の扱いが違うとか。ポナペでは島民の家で「子犬のまるごと蒸し焼き食べる?1時間ほどかかるけど」と茶色い子犬を指さしながら言われ、ほうほうのていで逃げかえる。サイパンは沖縄人が多くて言葉が通じなかったとか。
そして、この本の約半分が昭和16年6月から17年3月まで、パラオ・コロール町の南洋庁から東京に送られた書簡。
これはついでに読む感じだった。だが、中島がせっせと毎日のように家族に向けて書き送った手紙がとても興味深いし面白い。
戦前の南洋の島々で暮らしてた在留邦人たちと役人たち。そしてパラオやトラック島、ポナペ島などの島民たちの暮らしぶりがとても貴重。

たか夫人に書き送った現地の様子がとても詳しくて興味深い。暑くて参ってデング熱で寝込んでずっと仕事を休んでること。コロールの物価が内地よりも高いこと。食料の種類が少ないこと。
日本の文芸誌を送ってほしいと伝えたりしてる。どうやら航空便が定期的に出ていたようだ。けど、ラジオ放送はまだなかったようだ。

パラオ島民は自分の年齢を知らない。常夏で季節がないから。そしてみんな老けている。40歳ぐらいで70歳ぐらいに見える。暑さのせいか?

マーシャル群島の土人はおしゃれで、どんなボロ家にも手ミシンとアイロンがあり、日曜日には男女が着飾って教会へ行く…とも書かれている。興味深い。

ヤルート支庁で出会った竹内という役人が「風と共に去りぬ」を翻訳した大久保康雄をマーシャルの離島へ案内したことがあると中島敦に語ったとある。え、大久保康雄って、自分はエラリー・クイーンやヘミングウェイの新潮文庫版で名前しか知らなかったあの大久保康雄?!

とくに、長男・桓(たけし 国民学校2年生)に書き送った手紙がとてもすばらしい!
マーシャルやカロリン諸島へ視察に行く船の上で手紙を書く。教科書編纂に関わっていたので、教科書のようでもある。その一葉を引用すると、
昭和16年9月28日 ヤルートにて。中島桓宛
きのうヤルートへつくと すぐ小さい船(ボンボンボンといって走るやつ)にのりかえて、べつの島に行きました。そのとちゅうで いるかが三十ぴきばかり、ぼくらの船をとりまいて、きょうそうするように、およぎました。あたまを出したり、しっぽを出したりして、およぎます。中には空中にとびあがるのもあります。ぼくから十メートルくらい はなれた所で 三匹そろって一どに、とびました。いるかは とても ふざけんぼ ですよ。
ずっとこんな調子。めずらしい南洋の風景や生き物、人々、伝説と昔話などをやさしく書き送ってる。これはもっと多くの日本人に読まれないといけない。

ときには愚痴のようなことも書いている。パラオやトラック島の気候が内地人が健康的に暮らすには向いていないとも書いている。パラオがひたすら暑いし湿度が高くて不快。持病の喘息に悪いと不平不満。東京勤務にしてほしい。南洋の内地人はみんなやせ細ってる。

父親の中島田人氏には
「現下の時局では、土民教育など殆ど問題にされておらず、土民は労働者として、使いつぶして差支えなしというのが為政者の方針らしく見えます。」
「今迄多少は持っていた此の仕事への熱意も、すっかり失せ果てました。」
「とにかく、今のパラオのような生活を一年も一年半もつづけたら、身体はこわれ、頭はぼけ、気は狂って了いそうです。」
とも書いている。そしてたか夫人には…、
「今度旅行してみて、土人の教科書編纂という仕事の無意味さがはっきり判ってきた。」
「土人を幸福にしてやるためにはもっともっと大事なことが沢山ある。」
「今の南洋の事情では彼らに住居と食料を十分に与えることはだんだんできなくなっていくんだ。」
「なまじっか教育をほどこすことが、土人たちを不幸にするかも知れないんだ。」
「オレはもう、すっかり、編纂の仕事に熱が持てなくなって了った。」
「昔は彼らも幸福だったんだ。パンの実、ヤシ、バナナ、タロ芋は自然にみのり、働かないでも、そういうものさえ食べていれば良かったんだ。あとは、居眠りと、踊りと、おしゃべりとで、日が暮れていったものを、今は一日中こきつかわれて、おまけに椰子もパンの木も、ドンドン伐られてしまう。まったく可哀そうなものさ。」
なんか、急に絶望感がしてきて驚いた。戦前の日本人で、しかも南洋庁で働く人間がすでに皇民化教育に疑問を感じていた。「教育をほどこしてやった」と考えてる人は今も日本に多い気がする。現地で島民たちと接していた中島敦の言葉が重く響く。

サイパンへ行くと涼しい!夜は汗をかかない!物価が安い!道がキレイで広い!ガラパンでは岩波文庫を売ってる書店がある!と、サイパンを褒めている。それは意外だった。
その一方で、子どもたちがやたらハキハキテキパキしててまるで軍人みたいに教育が仕上がっていて嫌悪。

映画化希望。なんなら朝ドラ化希望。しかし問題点がある。現地の女性が半裸…。

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