2021年6月18日金曜日

大瀧詠一の瑞穂町

大瀧詠一は今もその楽曲や歌唱は人気が衰えない。昨年は七回忌。そして今年の3月で「A LONG VACATION」の発表から40周年。「君は天然色」とか昨年からすごくよく耳にした。
大瀧詠一を聴きながら、どこか聖地巡礼でもできる場所はないのか?
2015年に白夜書房から発売された「大瀧詠一 WRITING & TALKING」をじっくり熟読。副読本にKAWADE夢ムック 文藝別冊「大瀧詠一40年史」もじっくり読む。
大瀧詠一は「はっぴいえんど」解散後の1973年1月に福生に引っ越した。これはインタビューなどをじっくり精査熟読すると、子どもが生まれたから郊外に引っ越しを決断したらしい。

この時期は伊藤銀次も福生に住んでいた。細野晴臣は入間に住んでいた。音楽、芸術、文士たちの多くが米軍基地の街福生に住んでいた。
その後、多くが福生を離れ都心に戻ったらしい。結局、最期まで福生に住んだのは大瀧だけだった。

2018年西多摩郡瑞穂町郷土資料館けやき館大瀧詠一展を開催した。日本全国から熱心なファンが集まったらしい。ネットで話題にもなっていた。
実はこのとき自分も友人と行った。貴重なレコードや大瀧詠一の私物なんかを展示室で見た。
我々は車で行った。公共交通だと最寄り駅は八高線の箱根ヶ崎駅?みんな駅からぞろぞろと歩いて向かったのか?
今も瑞穂町図書館では一部ポスターやレコード、雑誌などを展示している。
ここは16号線から瑞穂町むさし野に入る踏切。おそらく、大瀧はクルマで出かけたとき必ず通ったはず。

実は、大瀧詠一が住んでいた場所は福生とはいいながら、行政区分では西多摩郡 瑞穂町だった。瑞穂町の福生よりのエリア、米軍ハウスが立ち並んでいた一画に2棟借りてレコーディングスタジオにしていたらしい。現在の「むさし野」と呼ばれる場所に住んでいたことはファンには公然の事実らしい。(ネットでいろいろ調べた)
その名も飛行場踏切。東京都内の単線。それが八高線。

「ナイアガラ・ムーン」が録音され、「ゴーゴーナイアガラ」のラジオ放送が発信された「福生45スタジオ」はどこなのか?ここは多くのミュージシャンがレコーディングに、多くの著名人が訪問した場所。大瀧のファンは誰もが一度は巡礼したい場所に違いない。
だが、いろいろとネットの情報を漁ってみてもそこに行ったという人は見かけない。

日本のPOPミュージック史において伝説の福生45スタジオには記念碑でも建てるべきだと思うのだが、ひょっとすると大瀧の家族が今も住んでいる?なのでみんな今も口をつぐんでいる?
朝鮮戦争(後にベトナム戦争)で日本の米軍基地には軍人と家族用の住居が急きょ作られた。どれもが平屋で壁にペンキというアメリカンスタイル。

建てられて70年とか経つ。年々残存数が減っている。2000年代に入ってから一気に取り壊され、土地が細かく区割りされ、新たに箱のような住宅がギッシリと建ち並んでいる。日本のどこでも見かける普通の住宅地になってしまっている。
大瀧が移り住んだ70年代初頭の風景を見つけることはもう難しい。あの時代を感じさせてくれる風景はもうほとんど見当たらない。

「大瀧詠一 WRITING & TALKING」を読むとじつによく「福生」という言葉と「福生45スタジオ」のことが出てくる。多くの著名人が訪れている。
大瀧と同じ年だった高田文夫も大瀧邸を訪れている。東京渋谷出身で日大芸術学部卒の高田は福生がどこにあるのかも知らなかったという。

文献やネットをどんなにじっくり読み調べても、大瀧は自宅スタジオ周辺で行きつけの食堂とかカフェとか商店とか、そういう話は一切していない。家の近所で撮った写真もない。なので大瀧詠一聖地巡礼は無理っぽい。

WRITING & TALKINGを読むと、大瀧の家には和風な庭があるらしい。亡くなったときのFNNニュース映像では自宅らしき外観がちょこっと映ったこともある。
だが、もうこれ以上は掘り下げない。ただ、なくなりつつある米軍ハウス住宅を見て歩く。
もう福生といえど、東京西郊のふつうの住宅地と変わらない。歩いてみてもそれほど面白くもなかった。
人の住んでなさそうな家もたくさんあった。外壁がはがれ、崩れ落ちそうになってる家もあった。これでは虫やネズミが出るかもしれない。冬は隙間風で寒いかもしれない。
キレイにリフォームして入居者募集広告をだしてる物件もあった。このへんに住むにはクルマが必要だと思う。
「石畑」という古い地名表記も残ってる。地名から推測するに、耕地には向かなかった土地だったかもしれない。「ハウス支線」とかいう名前を今も使ってることに驚いた。

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