2016年5月29日日曜日

東日本最大の廃墟?松尾鉱山

岩手県八幡平にかつて東洋一といわれた硫黄鉱山があった。大正から昭和40年代にかけて、最盛期で15,000人が天空の街で暮らしていた。それが松尾鉱山。
グレー一色の鉄筋コンクリート住宅が、放置されて半世紀、その骸をさらしている。

アスピーテラインから1本脇に入るとこんな風景。かつて学習院の夏季教育施設もあった場所だが、GWの昼間でも1時間にクルマ1台ぐらいの交通量か?
当然のようにその手のマニアたちにとっては有名で、「東の軍艦島」などと呼ばれたりしている。
あたりまえだが、危険なので立ち入り禁止。
かつて社員住宅があった場所に今では中間処理施設が建っている。それ以外の場所は地下が空洞のため、陥没の危険があるために絶対に立ち入ってはいけない。
冬は雪に埋まり、夏は草が生い茂り、それ以外の季節も枯れ草が行く手を阻むため、立ち入ろうにも進入は容易ではない。
おそらく瞬間で風速15メートルは吹いていた。吹き飛ばされそうな勢い。風の音しかしない。
こんな場所へ行こうという物好きは少なくないが多くもない。屋上に上ったりする猛者もいるらしい。
1階通路部分をゴォーっと強い風が吹き抜ける。木材も数十年の温度変化と雨風にさらされて朽ち果て吹き飛ばされていた。窓ガラスが1枚たりとも残っていない。
それにコンクリートも劣化が激しい。いつ剥落してくるかわからないので接近は大変に危険。
斜面に建っているために、一段上の棟へのメイン階段が伸びていた。
おそらく両側は商店だったのではないか?天井から垂れ下がる電灯が吹き抜ける強風でゆらゆらと揺れている。

これから日本は少子化がシャレになんないぐらいに加速する。地方の中核都市クラスでもこんな風景はめずらしくなくなるかもしれない。
エサをくわえたキツネが走り去っていった。タルコフスキーの「ストーカー」の場面がデジャヴった。
昭和40年代になると硫黄は石油精製の段階でつくられるようになったため、鉱山から採掘する必要がなくなった。そして鉱山から人々が消えた。
木造の社員住宅は閉山まもなく消防の類焼実験のために焼き払われた。だが、鉄筋コンクリート製の住居棟は壊すのにお金がかかるためにそのまま放置。
ここはおそらく入浴施設。地震や台風、積雪があるたびに荒れ果てる。
2013年までこの隣に鉄筋コンクリート製の小学校と体育館が建っていたのだが、そちらは取り壊された。この小学校で昭和36年に新年祝賀式で児童10名が将棋倒しで圧死するという痛ましい事故が起こってる。
煙突も風で揺れていた。このまま放置するといつか倒壊するかもしれない。
八幡平の街を新品のキレイな衣服を着て、最新型のカメラを肩に携帯ラジオを持って歩いているのはきまって松尾鉱山の社員だったそうだ。
鉱山で働くことは命の危険にさらされる。そのためにかなり良い給与が支払われた。ここも落盤事故を起こし多くの人が亡くなった歴史がある。
ここに住んでいた人々は何処に行った?実は大半の人が麓の柏台という場所に移住した。観光業などの他の職業に転職した。もちろん日本各地へ散らばった人もいる。
硫黄鉱業に早々に見切りをつけて退職金を受け取り転職した人はよかった。最後まで労働争議でがんばった人々はどうなったんだろう。
松尾鉱山町での生活はどのようなものだったか?実はかなり詳しく記録が残っている。なにせ15000人がそれほど拡散せず麓に移り住んだ。しかも当時はカメラが各家庭に普及していた。

そんな松尾鉱山の歴史と人々の暮らしは麓の鉱山資料館で詳し~く知ることができる。係員の人が求めてなくてもつきっきりでかなり熱心に話して教えてくれる。この町からオリンピック選手も出たらしい。
松尾鉱業鉄道の東八幡平駅跡地。戦前には高松宮、秩父宮殿下もこの駅に降り立った。
松尾鉱山町には昭和10年に水沢出身の斎藤実内務大臣も来ている。米内光政も来た。戦後には通産大臣時代の大平正芳も来ている。
山から運ばれた硫黄が搬出のために一時置かれた場所。
松尾鉱業鉄道が走ってた跡。

以上をもって2016年GWの東北旅行は目的を終えた。八幡平のペンションに泊まり、翌日はなんとなく盛岡から宮城県にかけてドライブ。
石川啄木が教鞭をとった渋民村の尋常小学校が移築保存されていたのでのぞいてみた。
自分はあんまり石川啄木って人になじみがない。啄木って昭和のころには国民的詩人扱いですごく人気あったんだよな。

帰りは初めて常磐道を通ってきた。

南相馬から浪江、双葉町のあたりを通過するとき、手元の簡易線量計では最大で1.26μSv/hという数値を目にした。道路わきに設置してある線量計よりは車内なので半分ほどの数値になってるのだが、東京では決して目にしない数値だった。

震災以前はどれぐらいの町の明かりがあったのか自分にはわからない。車窓の外の風景は真っ暗だった。SAも人がまばらで、まったく渋滞にも遭わず帰り着いた。

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