多保孝一は早々に製作側に身を退いてしまったので、2人そろってのインタビューは数が限られている。松山という地方都市で音楽趣味の合う仲間を見つけるのが難しいと感じていたのは越智だけではなく多保も同じだった。
■バンドのメンバーを探すのって、大変じゃなかった?60~70年代の音楽に興味のある人って、それほどいないと思うし‥。
多保「はい、全くと言っていいほどいませんでしたね。ゼロ(笑)。高校の時は完全にいなかったし、大学の音楽サークルにもほとんどいなくて。でも、最初はどうしてもバンドという形にこだわっていたから、無理矢理やってましたけどね。メタルが好きなドラム、ベースの人はパンクという感じで。」「2人でやる前からSuperflyという名前はあったんですけど(笑)、ここまで来るには、かなり試行錯誤がありました。さっきも言ったように、なかなか趣味が合う人がいなくて、思うようなバンドが組めなかったんですよ。で、だんだんと1人で作るようになってしまったんです。(作曲の)ソフト買って」 ~途中省略~
■越智さんも最初はバンド志向だったんですか?
志帆「憧れはありました。私はまず、“ステージに立ちたい”っていう気持ちが先にあったんです。自分の事を話したり、自己主張がすごく苦手なんですけど、たまたまステージに立った時に“ここが自分の居場所”っていう直感があって。とにかく気持ち良かったし、普段とは違う自分がいたんですよね。しかも、自分の歌を聴いてくれた人から“元気が出た”とか“刺激をもらった”っていう言葉がもらえる。ここだったら、私にも何かできるかもしれない‥‥そんなふうに思って」
バンドを組むって大変なんだな。みんながやりたいことが一致するって難しい。高校時代から60,70年代の音楽を聴いていた多保って‥すごい!そして、デビューシングルCW「孤独のハイエナ」についてのインタビューを得た。自分は2009年のSuperfly初武道館のとき、この曲が唯一の知らない曲だった。
多保「これは4年ぐらい前に作った曲なんですけど、最初から“ハイエナ”っていうキーワードがあって」
志帆「そこから自分の思っていることを交えつつ歌詞を書いたんです。テーマとしては、初めて渋谷の街を見た時の事が大きいですね。若者が地べたに座ってたり、ポイ捨てしたり、ムダにうろうろしたり‥そういう光景が、ある意味ショックだったんです。多分、地方から夢を持って出てきた人も多いと思うんですけど、こんなふうに時間を過ごしていいのか?っていう思いも込めて」
なるほど、そうだったのか。自分はたまにしか渋谷に行かなくなった。人ごみが嫌いだから。確かにあの光景は初めて見るとショックを受けるかもしれない。最近もいるのかどうか知らないが。最後に、このころの多保孝一のヘアスタイルについて本人の解説
「フェイセズ時代のロッド・スチュワート」
そして最近ちょっと前の「装苑」を読んでいたら、「これ、志帆じゃね?」という広告を見つけた。
なかなか素敵な志帆だが、どこを探してもSuperflyの文字はない。
ところが、志帆の着ている服に関心の高い人には常識だった。おそらくFCに入っている人にも常識。自分は他人の常識を知らない事が多々ある。
志帆が着ているような服が欲しかったらCOSMIC MARKET
ここ数ヶ月の懸案だったSuperflyのFC限定ライブのZepp TOKYO公演も無事当選しお金も払い込んだ。後は何事もなく当日そこへ行けることを祈るしかない。新曲しかしないそうなので乗れるか不安。今年のライブの予定はいまのところこれしかない。
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