内田百閒「第一阿房列車」(昭和27年)を読む。今作は昭和26年から27年にかけて小説新潮に掲載。昭和27年6月に三笠書房より刊行。平成15年(2003年)に新潮文庫化。
自分、第二阿房列車から読んでしまった。もう10年ぐらい前なので内容はあまり覚えていない。夏目漱石門下で芥川龍之介の友人だった内田百閒(1889-1971)はめんどくさいコミュ障の乗り鉄専門鉄オタ。旅行とか観光にほとんど関心のない無目的鉄道乗車を趣味とする謎老人。なので「阿房列車」。
昔の人はコミュ力高いと勝手に思ってたのだが、内田百閒の他人とのコミュニケーションのとれてなさ具合は異常。会話が噛み合ってない。
昭和25年の日本を感じられることは貴重。まだGHQ占領下。この当時は国鉄だったはずだが、内田百閒は「市ヶ谷から省線に乗る」とか言ってる。ま、人々は普段使っていた言葉をいきなり変更することはできないだろうな。
東京駅改札での内田百閒
いくつもある改札口の、今使っていない所に靠れて、地下道で縺れ合っている人の流れを眺めた。ろくな人相の男はいない。たまに女が混じって来る。女の人相は男よりまだ悪い。男も女も猿が風を引いた様な顔をしている。
毒舌すぎる。今現在の令和東京の人々で「人相が悪い」人はたまにしか見かけない。
あと、自分が「御殿場線はかつての東海道本線だった」という事実を知ったのは数年前だった。昭和9年に丹那隧道が開通するまでは山北から駿河小山、御殿場を通って沼津へ向かっていた。興津には西園寺公が住んでいた。
あと、このころはまだ大阪の宿の窓には防空演習用の遮蔽幕というのがあって自分は驚いた。内田百閒は北海道へ行くのは嫌がる。理由は日本海の水雷が津軽海峡に流れてこないか心配だから。まじか。あと、内田百閒は戦前に台湾へ行ったことがあるのだが、当時は乗客全員が甲板に集まって救命胴衣を着て沈没訓練というのがあったのか。
内田百閒は岡山市の出身。鹿児島へ向かう途中の岡山
汽車が旭川鉄橋に掛かって、轟轟と響きを立てる。川下の空に烏城の天守閣を探したが無い。ないのは承知しているが、つい見る気になって、矢っ張り無いのが淋しい。空に締め括りがなくなっている。昭和二十年六月晦日の空襲に焼かれたのであって、三万三千戸あった町家が、ぐるりの、町外れの三千戸を残して、みんな焼き払われた晩に、子供の時から見慣れたお城も焼けてしまった。
岡山大空襲は実際にあった出来事なんだなあって。ここを読んで、横溝正史「死仮面」のことを想った。
岩手・盛岡へ向かう途中、大宮と宇都宮の間での描写が興味深い
車内は大変こんでいる。通路に立っている人もある。私と向かい合った前の席に、今、赤ん坊を喰ったと云う様な真っ赤な口をした若い女がいる。岩乗なからだつきで、胸の辺りがはち切れそうである。どう云う婦人だろうと思っていると、車外のデッキに起っているらしい黒人兵が這入って来て、何か食べ物を差し入れした。
黒人兵と連れ添った若い派手な女。昭和20年代ならではかもしれないが、ベトナム戦争あたりの横田基地周辺にも見られた光景かもしれない。今はもう普通で気にも留めない風景かもしれない。
福島の宿で女中の話す言葉が聞き取れないだとか、東北は電力供給がひっ迫していて蝋燭と燭台と懐中電灯持参してきたという件も貴重だと感じた。
テレビドラマや映画で終戦直後を描くと、自分はあんまりリアリティを感じない。作り手が当時書かれた小説なりエッセイなりを読む必要があるように感じた。
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