2021年8月14日土曜日

松井石根

文春新書817「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(2011)という本を読む。著者は愛知出身のルポライターだとしか経歴に書かれていない。

東京裁判でA級戦犯として訴追された中で死刑判決が下された7名のうちのひとりが上海派遣軍司令官松井石根(1878-1948)
南京を陥落させた凱旋将軍として当時は英雄。だが、現在では多くの日本人は南京事件の責任を取らされた人ということしか知らない。なのでこの本を手にとった。いきなり処刑のその日その瞬間の記述から始まる。気が滅入る。

7人それぞれに関心はある。東条英機はいろんな戦争の本で見聞きする。広田弘毅は城山三郎のベストセラー本で多少は知ってるところもある。
板垣征四郎、土肥原賢二は満洲関連の本や小説で目にするのだが、軍務局長武藤章、ビルマ方面司令官木村兵太郎、そして松井石根大将の3人はほとんど人となりが伝わっていない。ドラマでも登場しない。よく知らない。

だが、自分は高校生の頃から南京事件だけは避けてきた。中国人たちから日本人は歴史を学べ!と言われても、連合国は広島に核兵器を使用したではないか。それでチャラではないのか?と思ってた。
南京もよくある市街戦ではないのか?ヘミングウェイの第一次大戦を舞台にした小説を読めば、便衣兵は捕虜としては扱われないのは当時の常識ではないのか?処刑が民間人虐殺のように目撃されただけなのでは?と、漠然と感じていた。学校の先生もあまりこのへんは教えてくれない。

愛知県の現名古屋市の名家に生れた松井石根は陸軍幼年学校を経て陸士9期生では次席、陸大18期(在学中に日露戦争に出征し後に復学)恩賜の軍刀組という超エリート軍人。
小柄で痩身。陸大では仏語か独語を学ぶものが多かった時代に支那語を選択。親中派の重鎮として発言権もあった大物になっていく。

ずっと満州事変をささーっと高速でおさらい。12万人将兵の犠牲と引き換えに守った満洲の特殊権益が守られていない不満。そもそも孫文の革命を支援したのは日本なのに、激しい反日排日暴動で在留邦人が保護されていない。

国民党革命軍と蒋介石への不満。親中派で蒋介石と蜜月にあった松井も「国民党は中国のためにならない」など、そのときどう感じたのか?が列挙されている。(その発言の出典は本文中には書かれていない。あまりガチガチに歴史のお勉強をする人向けではない。)

陸軍統制派の「一撃論」派が強まるも、ソ戦を仮想敵とする陸軍は慎重姿勢をとりつつ、日中のいざこざのたびに満洲と華北の分断を進める。
満洲から抗日勢力を排除することが安定につながると信じる。だが、それにしても抗日侮日のテロが続く。現地邦人居留民は安心できない。もう蒋介石の国民党にも期待できない。

そして昭和12年の盧溝橋。そして第2次上海事変。予備役の松井は上海派遣軍司令官として現場復帰。この上海戦が日本側にも被害が大きかった。松井はマラリアで体調も悪く日本兵も疲労困憊。
そこに柳川平助率いる第十軍が杭州湾から上陸。この第十軍が松井とは別の命令系統。そして火をつけながら南京方面に逃げた国民党軍を独断で追う。
上海で戦友を失った者、南京を落とせば戦争は終わる!と日本兵たちの士気は高い。

中国側も無用な犠牲を避けるために南京を放棄し開放する意見も多数あったのだが守備隊司令官唐生智は徹底抗戦で蒋介石を押し切る。(こいつは誰より早く逃亡)
このとき松井は南京にはいない。病状悪化で蘇州に留まる。南京側から降伏勧告への回答がなく、致し方なく攻撃命令下る。

日本軍は新聞各社カメラマン、人気作家、国際法の権威も帯同。松井は文化財の保護にも注意した。中山陵への攻撃も禁じた。ハーグ陸戦法規第26条「砲撃の通告」も行ってる?松井は国際法順守に努力していた。そういうの、初めて知った。
南京城内では日本軍入城以前から同士討ちや略奪が始まっていた。それは各国のメディアが伝えている。混乱の極み。

敗走する中国軍に向けて銃を向けるのが督戦隊。こいつが酷い。(スターリンも独ソ戦で同じことをやった。)兵士は軍服を脱いで市内中央に設けられた安全地帯へ逃げ込む。そして機を見て攻撃参加。便衣兵戦術は一般人に被害が及ぶためにハーグ陸戦法規違反。摘発と掃討はやむを得ない。こいつがさらなる悲劇。

日本側は国際法順守にがんばったのに、中国側が国際法をまったく守らないどころか知らなかった?
(チャールズ・A・リンドバーグは米豪軍は日本人捕虜をほとんど殺害していたと著書に書いているらしい。中国も日本人捕虜を皆殺ししてたらしい。)

沖縄決戦で有名な長勇中佐は増え続ける中国人捕虜に業を煮やして「ヤッチマエ」という発言をしたらしい。松井は強い口調で叱責したらしい。
占領後の軍規の乱れ(略奪など)に松井は苦心した。だが、司令官として正しい仕事をしたと思われる。
「中国寄り」の松井に反発し冷笑する部下も多かった。中島今朝吾第16師団長がその代表。面従腹背。理想論者の松井の限界。

松井の予想より短時間で南京は陥落。首都攻防市街戦にしては損害も少なくて済んだと思っていた。いつのまにか虐殺があったことになっているのは終戦後に知る。松井は反英米発言が多かった。東京裁判では松井が大虐殺を命令したことになっていた。

東京裁判弁護側の証人「東京は焦土だが南京の街には戦前の建物が残ってる。現地を見れば明瞭である。」ああ、ごもっとも。日本兵に対する残虐行為は国民革命軍側にもあった。
上海では虐殺のたぐいは何も起こっていない。結局やはり中国側のプロパガンダでしかない…という本だった。

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