織田信長(1534-1582)の一代記「信長公記」(太田牛一)に、イエズス会宣教師から信長に贈られた黒人従者のことが書かれている。この黒人は弥助という名前がつけられたらしいことは知ってはいた。2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」にもそのシーンが登場する。
最近、ロックリー・トーマスという英国人研究者の書いた「AFRICAN SAMURAI」という本が世界的にバズっているらしい。この本にインスパイアされてアニメや映画の話にもなってるらしい。
この人が10年がかりで弥助について調べまくった。そのおかげで、あまりに情報の少なかった弥助のぼんやりしたイメージがかなり具体化してきた。
で、BSプレミアムさんがトーマス氏の研究に基づいて「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」という番組を制作し放送(5月15日)。チェックした。
信長公記は写本によって微妙に記述が異なるらしいのだが、かみ砕いて言うと、本能寺の変の1年前、天正9年2月23日、信長に謁見したヴァリニャーノが連れていた26,27歳ぐらいとみられる「牛のように黒い」「十人力」の大柄な黒人青年に信長は驚いて、墨を塗ってる?と疑ったらしい話が伝わってる。その後、弥助という名前で信長に仕えたらしい。
ローマのイエズス会に保管されている1574年8月7日付けヴァリニャーノ書簡によれば、司令官から黒人奴隷を譲られたヴァリニャーノ師は1人だけ黒人奴隷を手元に残したらしい。ひょっとして、その1人が弥助?モザンビーク島からやって来た?
イエズス会宣教師と日本に布教に向かったのならば、インドのゴアにあった聖パウロ学院で教育(砲術も?)を受けたはずだ。
ポルトガル船は長崎島原半島の口之津に上陸したはずだ。そして、堺へ上陸。
国際都市堺は外国人慣れしてた都市であっても黒人は珍しかったらしく、多くの日本人が好奇心で見物にやって来たことが書かれている。(1581年4月14日付ルイス・フロイス書簡)
偉い宣教師の身の回り品を持ちそばに仕えることのできた奴隷は、礼儀作法があって頭がよく、容姿が美しく、護衛もつとめることのできる強靭な体の持ち主であったはずだ。堺市に残る屏風絵に書かれたこの人物が弥助の可能性もある!?
さらに、堺市博物館に保管されている「相撲遊楽図屏風」で相撲を取る黒人男性?と思われる人物が!
もしかして弥助では?取り組みを待っている髷を結った日本人たちが10人なことも「十人力」弥助を示している。(それだと待ってる力士は9人でないといけない気もするが)
さらに、信長が武田勝頼を攻めるさいに従軍した家康家臣松平家忠(1555-1600)の日記(駒澤大学図書館蔵)にも信長が、身長六尺二分(180㎝以上)の黒人を連れている様子が書き残されている。この家忠日記には700名近い人名が登場するのだが、身体的特徴について書かれた箇所はこの1か所のみらしい。
安土で弥助は屋敷を持ち帯刀も許されていた。弥助は信長に大切に扱われていたらしい記述もイエズス会の記録に残されている。
そして本能寺の変。弥助は信長の最期を見届けた後、信忠を守るために援護に走った?
南蛮寺で事態の成り行きを見守っていたフロイスの残した書簡によれば、弥助は信忠のいた妙覚寺で終戦。明智光秀は「日本人ではない」という理由で弥助を殺さずに南蛮寺に身柄を引き渡したらしい。ここで弥助の記録は歴史の闇に消えた…。
トーマス氏は、2年後の島原合戦において有馬晴信の軍に「砲弾を装填できるカフル人(黒人)」の記録を発見。もしや、この黒人は弥助では?!弥助はイエズス会と共に行動し九州島原に戻った?
有馬氏は戦功のあったものにイエズス会から手に入れた珍しい犬を贈ったらしい。有馬キリシタン遺産記念館に伝わる絵に描かれる犬を飼いならす人物は黒人では?と言われてるらしい。
誰も彼も黒人っぽければ「弥助では?」ということは、歴史学から見て飛躍しすぎかもしれない。だが、当時の日本に砲術の技術者、まして黒人の少なさを考えれば、それもあり得ない話ではない…。
本能寺の変の11年後、加藤清正が側近にあてた手紙(栗間家文書)に、清正の家臣の黒人が妻子を持っていたことが書かれている。これももしかして弥助?
だとすると、弥助は本能寺の変の後も生き延びて、日本で幸せに穏やかに人生を過ごしていたのかもしれない…。そんな余韻を残してこの番組は終わった。
面白かった。弥助の記録は信長と出会ったあの瞬間しかないものと思ってた。日本の歴史にはたった1行1エピソードしか記録に残っていない人物がいくらでもいる。
数少ない記録をたどってここまでイメージを膨らませたトーマス氏は、歴史学者から見れば作家のように見えるかもしれないが、10年の調査でこれだけ新たな発見をもたらした点で偉大。
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