水上勉「金閣炎上」(昭和54年)を新潮文庫版(昭和61年)で読む。
水上勉(1919-2004)を初めて読む。同じテーマの作品に三島由紀夫「金閣寺」(昭和31年)がある。三島の金閣寺は過去2回読んだことがある。今回初めて読む「金閣炎上」は三島から23年後の作品。
筆者は金閣寺放火犯の林養賢を知ってるらしい。個人的に会ったことがあるらしい。丹波の貧しい漁村を訪ね、養賢の両親のことについても村人に訪ねて回ったドキュメンタリー。
無住の寺に派遣されてきた住職は結核で寝たきり。女ざかりの妻が嫁ぐ。そして養賢が生まれた。3歳のころから吃音。
戦前の漁村での出産については梅原猛の著書か何かでなんとなく知っていた。それでも昭和までこんなふうに子どもが生まれていたとか、わりとショックを感じた。
養賢は遠い伝手を頼って金閣寺の門弟になる。だが戦争末期で京都も食糧事情が悪化。戦争末期は日本津々浦々まで出征兵士と戦死公報。今まで考えたこともなかったけど、お坊さんや小僧まで出征。
あと、住職は籍を入れないまま妻帯状態が多かった。なので夫が死んだ後はなんら保障がない。寺を追い出される。養賢の母志満子さん(放火事件後に身投げ自殺)も同じ境遇。村人たちから「いつまでいるの?」と白い目。読んでていろいろ悲しい。
戦後すぐまで南京政府主席陳公博(亡命中)が金閣寺に匿われていたことをこの本を読むまで知らなかった。(後に漢奸として銃殺刑)
そして観光寺金閣でお金を貯め込んでるのに吝嗇な慈海師への反感。この時期金閣を居所にしていた元京都府知事も養賢には悪印象を持っていた。だが筆者はいろいろと養賢を擁護。
大谷大学では3年生になって急に成績が下がっている。筆者が調べてみても理由が謎。親しい同級生にもわからない。ただ、禅宗寺院の徒弟がもれなく悩むのが性の問題だった可能性はある。
昭和25年7月3日午前3時ごろ金閣寺炎上。養賢は山の中でうずくまっているところを発見され逮捕。当時21歳大学生。
事件前に養賢は衣類や書籍をお金に換え、五番町で女を買うなどしてる。人生に嫌になって死ぬついでに金閣寺に放火か?
金閣炎上直後に慈海師は新聞記者との会見を拒否してたのだが、唯一会見を許されたのが産経新聞京都支局の福田定一。なんと後の司馬遼太郎だ!著者は司馬遼太郎にも話を聴いた。
金閣寺舎利殿は現住建造物でなかったので、国宝を燃やす大罪ではあっても懲役7年の判決。だが、精神鑑定でも判決理由にもまったく吃音の件が触れられていない。なぜ?公式な記録って人間の内面が何も見えてこない。
水上勉は林養賢について歩き回っていろんな人に話を聴いたり調べ回った。それでも放火の動機についてはわからない。推測しかできない。
獄中で養賢は結核と精神状態が悪化。加古川刑務所から昭和28年3月に八王子医療刑務所へ。恩赦減刑で10月に釈放、そして府立洛南病院に入院。昭和31年3月7日に大量の喀血の後に死亡。27歳の生涯。
この本の最後に筆者は林養賢と母志満子の墓を探し歩く。悲哀の感情がしみじみあふれる。金閣寺が燃えたことはいろんな悲劇の積み重ね。養賢の境遇には誰もが思う所ある。誰だって養賢のようになってた可能性はある。誰が悪いってわけでもないな…と思った。
この本、三島由紀夫「金閣寺」とはまるで受けるイメージが違う。三島はほぼ文豪によるフィクション小説。(「金閣寺」は「新潮」昭和31年1月号から連載が始まってる。ということは連載中に養賢は亡くなったのか。)
水上勉「金閣炎上」は三島の「金閣寺」に比べてあまり世間に知られていない気がする。自分はてっきり純文学だと思って読みだした。だが違ってた。林養賢の実像に迫る、多くの証言によって構成された、ほぼ社会派ドキュメンタリーだった。
どちらかというと松本清張や吉村昭のようなジャンル。この本が「金閣を燃やした男 林養賢の生涯」というタイトルで、当時の写真をコラージュしたような表紙だったら、さらにもっと多くの人に読まれていたかもしれない。
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