2019年10月5日土曜日

アーネスト・サトウ伝(1933)

B.M.アレン「アーネスト・サトウ伝」(1933)を、庄田元男訳 平凡社東洋文庫648 読む。
幕末から明治期、常に日英外交の現場にいた通訳官で後の駐日公使アーネスト・サトウの経歴と偉業をたたえる伝記。バーナード・メリディス・アレン著「アーネスト・サトウ卿」という本の訳。

アーネスト・サトウ(1943-1929)の伝記は岩波文庫にも「一外交官の見た明治維新」という本がある。たぶんそちらのほうがよく読まれていて面白い。こちらはサトウが活躍した時代の日英外交と事件をただひたすら客観的に記述するのみ。

当時サトウが考えたことも著作から引用されているものの、それはほんのわずか。あまりに淡々と歴史トピックの列挙が続く。

てっきり自分はこの人を日英ハーフだと思ってた。顔写真を見る限り英国人なので、日本語を学んだ師を岳父のように慕って名前を名乗っていた?とも考えた。だが、Satowはスウェーデン人の父の名前だった。
長身痩躯で気品があって、このサトウという名前もあって日本人は親しみを感じた。

パブリックスクール時代から優秀。18歳で英国外務省の通訳生に応募。清国で漢字を学んだ後、1862年に来日。来日から9か月で幕府や大名の書状を読めるようになっていたという語学の天才。

来日した当時は攘夷の嵐。東禅寺事件、生麦事件、英国公使館焼き討ち事件、薩英戦争、下関戦争などなど、オールコック公使、パークス公使の下、現場で維新の志士たちと交渉。この時代、英国本国に指示を仰ごうにも情報が往復するのに5か月かかる。京都や掛川で襲撃に遭い命を狙われる。
天皇による勅許状を英国公使一行の前で読み上げた瞬間が通訳官として日英外交史でもっとも輝かしい場面。

鳥羽伏見の戦いでは負傷者の治療のため、英国人医師と共に京都へ。外国人が京都に入ったのはザビエル以来300年ぶりだったという。

日本を離れてシャム、ウルグアイ、モロッコ、北京で領事を歴任。外交官として順調に出世。帝国主義列強の思惑が衝突する外交の現場を渡り歩く。
駐日英国公使として日本に戻ったら、すでに大日本国憲法と不平等条約改正など、日本は国際社会へ堂々と歩み始めていた。

ハーグの国際司法裁判所に勤めた後に引退してからは本を書くなど悠々自適。サトウが書いた外交実務書は当時の権威書となった。
だが、サトウの著作はもう英国ではほとんど読まれていないらしい。

正直、伝記読物としては物足りないし面白くはない。サトウの外交官時代のプライベートな出来事は一切書かれていない。外交官にプライベートなどないのかもしれない。

幕末から明治の日英外交と国際情勢を扱っているので、大学受験期間中に知識を整理するために読むには適した本かもしれない。

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