これはタイトルが示す通り黒船来航のときの現場の様子を詳しく描いてる。そしてオランダ語の主任通詞として、初めて接するアメリカ人と交渉の現場にいた堀達之助(1823-1894)の数奇な生涯を描いている。
通詞として名門の家系に生まれ、通詞として各の高い家の養子となった達之助。養父がシーボルト事件の巻き添えで入獄。極貧生活。帰ってきた養父は廃人。苦学してオランダ語をマスター。そして浦賀に配属され、黒船来航その日を迎える。
黒船でやってきたアメリカ人が士官も水兵も船員も異文化からやってきた得体のしれない連中。オランダ語を話せるとは言ってもコミュニケーションがうまくいくわけもない。
長崎出島で出会ったオランダ人たちはみんな温厚な紳士たちだったものの、米国人たちは日本を脅して開港させようとやってきた一筋縄でいかない連中。
立ち去るように言っても無視される。勝手に水深を調査する。勝手に上陸したり許可なく寺に泊まったり狩りもする。
でもって抗議すると相手から嫌われるw 「堀は無礼だ」と告げ口。自分への悪口も通詞という技能官吏である職責上そのまま訳して上役へ伝える。こんなのメンタル病むわ。
でもなんとかうまく乗り切って褒美までもらう。ここがこの人の人生の最高地点。
自由奔放すぎる米国人たち。沖縄の基地問題の源流を見た気がする。
ロシア人プチャーチンとの折衝でも神経をすり減らす。
交渉現場での相手の脅しや無視や論点をずらした言い訳やごり押し主張。外交って神経をすり減らす厳しい現場。まさに今日韓外交で行われていることそのもの。(米国は条約を破ったりはしないが)こういう連中を相手にしてると心も荒んでいく。
思い返してみると、オランダ商館員以外の異国人は、或る者は恐喝的であり、或る者は狡猾で、何を考えているのかつかめない者ばかりであった。そして交渉の現場の人々は、初めて経験する外国人の体臭にも悩まされていた。その点でもオランダ人は優秀だった。
ドイツ人リュドルフの通商を求める私信を奉行に届けなかったという些細な罪で小伝馬町の獄舎に送られる。同じ時期に吉田松陰も入獄していた。この時代の獄はほとんど地獄。牢名主に付け届けをしないと大変な目に遭う。
ひと言かばってくれれば獄舎に送られないでも済んだのにと、自分を追い越して出世していく森山栄之助を恨む。先行して英語を学ぶ機会があっただけの違いなのに。人の浮き沈みはタイミングが大きい。
出所を働きかけてくれた古賀謹一郎の元、文久二年、番所調所で日本初と言っていい英和対訳袖珍辞書を刊行。200部刷られて2両で販売したところたちまち評判。プレミア化。
これは後に堀に無断で勝手に改訂増補版が次々とつくられる。それは面白くない。
そして函館奉行所に勤務。英語の技能者として高い給金で雇われる。
墓地からアイヌ人骨を勝手に掘り起こして本国に送って売っていたのに事実を認めようとしないサイテー英国人領事との糾弾と交渉。長く生の英語に接してなくてしどろもどろになり冷や汗。
英文の翻訳と作文は第一人者だけど、丁々発止の現場で通訳は苦手っていう。周囲が蔑みの目に変っていく…。
日本人は幕末からアングロサクソンの連中の嘘と狡さには困惑していた。そして無能なお役人たち
異国人に接する幕吏は、とにかく控え目で、異国人の機嫌を損なうまいとする傾向が強い。それによって異国人は強圧的な態度をとり、自らの側に非があっても認めようとせず、逆に日本側に責任を転嫁して不法な要求を押し付けてくる。幕吏はこれに対して、その場のがれの言葉を口にし時間かせぎをして役人としての過失をおかすまいとつとめる。これが今日そのまま日韓関係の元凶にもなっているというw
そして奥州の戦乱、函館戦争、再婚、妻との死別、自分より格下だった者が自分より出世してて絶望。「もう仕事も英語もどうでもいいわ」諦めの境地へ。
函館を離れ故郷の長崎へ帰り、息子たちと暮らす。そして死。日清戦争の前年まで生きた。
とにかく吉村昭の調べ上げたことだけ淡々と書き連ねられた本。面白さはないかもしれないが、こんな人がいた!と知れる良い本。
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