KOREA AND HER NEIGHBOURS by Mrs. Bishop [Isabella L. Bird] 1898 Londonとして全2巻で出版されたものの平凡社1993年東洋文庫572-573で読む。
東北北海道を旅したとき47歳だったバードさんは60歳を超えていた。50歳のとき本国で医者と結婚しビショップ夫人と名前を変えるも夫とは死別。
英語の本を日本語に訳しているはずなのだが翻訳は在日朝鮮人の朴尚得(パク サントク)氏によるもの。
100年前の祖国の姿に関心が高かったのなら正しく間違いなく翻訳してくれるているだろうと思う。英米で好評だった本書は、大正時代に日本でも最初の抄訳版が出てるそうだが、日本人でこの本の完全対訳をしようという人は1993年まで他にいなかったのか?
序文を英国駐朝鮮公使ウォルター C. ヒリアが書いている。
「朝鮮行政のもっとも目立った悪弊を改革する日本の努力は、少し乱暴だったが、疑いもなくまじめで誠実なものであった。」当時の朝鮮が両班による圧制と強奪にあったことは世界的常識だったようだ。それを改革するのは外国の保護と指導しかないと思われていたようだ。
「政治的考慮は全て暫くわきに置くとして、朝鮮人の繁栄と全般的な安寧と幸福が、文明化された列強諸国の拡大された支援の下で素晴らしく増進する事は、疑問の余地の無いところである。」
日本の影響が強くなっていた朝鮮。釜山や仁川の港湾で見かける人が日本人か清国人しかいない!(朝鮮人が働いている姿を見かけない)
清国人のほうが商売で日本人を圧倒していた様子。「外国人の贔屓をほとんど独占」という状態。それに朝鮮人は日本人を嫌い清国人を信用していたらしい。
「日本奥地紀行」は素人旅行家の書いた生き生きとした旅行記で面白かった印象なのだが、「朝鮮奥地紀行」は地理学、風土、民族、行政、経済、文化など事細かな記述が多く、ジャーナリストの書く文章になってしまっていて、読んでいてそれほど面白くない。英国地理学会特別会員という地位のせい?かなり固い印象。
貿易統計の数値、朝鮮の男性の平均身長、物価、王の行列の衣装の事細かな描写など、それなりに貴重な資料ではある。随行員が増えたのでそういう情報を得る余裕ができたのかもしれない。
この本、日本と比べて朝鮮を辛辣にディスっているという話を耳にしていた。だが、自分の印象ではそうでもない。ビショップ夫人は朝鮮の風土と人々に愛情をもって接していた。
「気候は疑いもなく世界で一番素晴らしく、健康のためにも最適である。外国人でも気候の弊害で悩まされる事は何一つ無い。ヨーロッパ人の児童は、朝鮮半島のあらゆる地域で健全に育てられている。七月、八月そしてしばしば九月前半は暑くて雨が多い。しかし、その暑さは、いつでも運動が出来る程に海のそよ風で和らげられている。一年の九か月間、空はたいてい晴れている。朝鮮の冬は、しんと静かな大気、曇りのない晴れて青い空、穏やかでからっからに乾いた日照り、爽やかで冷ややかな夜と、まったく素晴らしい。」と朝鮮の風土は手放しの褒めよう。近年ニュースでソウルの微細粉塵の酷さをよく耳にする。昔の朝鮮は空気が澄んでキレイだったらしい。
朝鮮の冬は寒すぎるようにイメージしていたのだが、英国人やヨーロッパ人にとっては本国と同じ程度だったのかもしれない。
ビショップ夫人は済物浦(仁川)に上陸し漢城(ソウル)を目指すのだが、てっきり漢江を船で遡るのかと思いきや陸路を行くのであった。出迎えの領事は驢馬、夫人は6人がかつぐ駕籠に乗る。山々に木々がないことが印象的。
このソウルの記述がネット上で多く引用されている問題の箇所
「私は気おくれしてソウル市内のことは描写しない。私は北京を見るまではソウルを地球上もっとも不潔な都市、また紹興(中国浙江省北部の県)の悪臭に出会うまではもっとも悪臭のひどい都市と考えていた!
大都市、首都にしてはそのみすばらしさは名状できない程ひどいものである。礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。その結果、二十五万人と見積もられている人びとが地べた、主として迷路のような路地で暮らしている。
その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す個体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い緑によって一層狭められている。
そのどぶは半裸の子供たちやどろどろしたへどろのなかを転げ回るか、日なたで目をぱちくりさせている汚物で汚れた大きな、毛の抜けたかすみ目の犬が大好きでよく行くところである。 」
「商店は、一般に惨めさを共有している。商店はたくさんあるが、在庫品の値打ちは六ドル程である。」終始こんな調子。英国にも東京にも貧民窟のような場所はあったのだが、これをよむかぎり王城以外のソウルは街全体がそんな感じだったかもしれない。
そして北京の方がソウルより不潔だったとは知らなかった。「ラストエンペラー」を見るかぎりそうだったとは思ってもいなかった。
「犬はソウル唯一の掃除屋である。ひどく無能な掃除屋である。犬は人間の友でも伴侶でもない。犬は朝鮮語やその他全ての話される言語に無知である。犬の夜鳴きは危険な泥棒を知らせる。犬はほとんど野生である。若い犬は春、殺されて食べられる。」自分、犬は一生ぜったいに口にしないと思う。
「ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺跡ははなはだ少ない。公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せるものも無い。劇場もない。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。しまいには、他には見い出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルは寺院無しの状態で放置されている。一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓がないままにされている!」ここは江戸東京や日本の城下町門前町とえらく違う。寺もないというのは意外。朝鮮では僧侶はあまり尊敬されなかったらしい。
外国人が朝鮮の内陸部を旅行しようとするとお金の問題があった。銀行も郵便局もないために両替ができない。しかもこの国の通貨は葉銭という悪質な金属貨幣。こいつを大量に驢馬に括り付けて運ぶ困難!
で、小さな小舟(サンパン)で漢江を遡る。途中の村の農家についての記述でオンドルについて書いている
「農家は、ソウルの貧しい階層の家と異ならない。壁は泥造りである。床も泥造りであるが、多数の煙道(オンドル)で暖められる。それは、すべての暖房方法のなかでもっとも経済的なものである。というのは十歳の少年が運べる量の枯葉や雑草で、二部屋を華氏七十度(摂氏二十一度)以上に、十二時間に亘って保てるからである。」それはすばらしく経済的だ。あこがれの床暖房だ。日本の東北部でオンドルのような設備がまったく発達しなかったのはなぜなのか?
だがこのオンドルのおかげで金剛山では蝋燭を溶かし飴を蜜に変え写真機材を台無しにしてしまった。
関子(クワヌザ)という朝鮮政府発行の旅券があるのだが、役人がそれで無銭飲食無銭調達をするので嫌がられる。地方の行政長官がお金を前貸ししても朝鮮政府は支払わなかったりする。なのでやっぱり葉銭を使わざるをえないという…。まるで砂漠かジャングルを行くような旅。
だが、金剛山のような場所の風景は褒めている。初めて見る外国人に対しても親切な人々を褒めている。
東学党の乱と日本軍の進駐、日清戦争(夫人が満洲滞在中に勃発)という朝鮮半島にとって動乱の時代。そして元山から釜山、牛荘(営口)から洪水災害の最中の満洲、そしてウラジオストクへ。緊迫した現地のルポルタージュ。
第2巻はひきつづき新しい帝国「ロシア太平洋帝国ウラジオストク」での見聞録。
そして再びソウルに戻ったビショップ夫人は国王夫妻に謁見。(閔妃暗殺の9か月前)
日清戦争で朝鮮は清国から日本の影響力が強まっていく。だがやがて日本が弱まりロシアの影響力が強まっていく。
朝鮮史の暗黒部。そのへんはあんまり詳しくないので読んでいて苦痛だった。
19世紀朝鮮は世界でもまれにみる宗教への信仰が薄い地域だったらしいけど、第34章の鬼神崇拝とシャーマニズムの記述はとても貴重だと感じた。日本のものと共通の要素があるように思えるから。
両班は体をゆらゆら揺らして歩いていたらしいけど、それ、どんな?よくイメージできない。
両班と迷信、シャーマニズムが社会の発展と改革を阻む。両班には批判的だが、人々は親切で礼儀があるとビショップ夫人は好意的。
断髪の件では朝鮮国内は相当にもめていた!
あと、朝鮮の女性の扱いが酷い。
「朝鮮の下層階級の女たちは躾が悪く、不作法である。日本の同じ下層階級の女性の優雅、或いは中国の農婦たちの遠慮と親切からは遠く隔たっている。彼女らの衣類はひどくきたない。」「日本奥地紀行」でも嫁は姑の奴隷と書かれている。日本と朝鮮は男尊女卑においてそれほどの差はなかったかもしれないと思っていた。
「朝鮮の農婦には楽しみは何一つ無い、と言えるかも知れない。単調で辛い仕事を少し息子の妻(嫁)に任せるようになるまで、奴隷のように働かされる人以外の何物でもない。」
「この国には少女用の学校は一校も無い。上流階級の女性は、この国固有の文字(諺文)を読むことを学ぶが、その文字を読める朝鮮女性の数は千人中二人と見積もられている。」
だが、ここを読むと日本はマシだったと気づく。これでは社会の発展と改革は望めないのではないか。
ラスト第37章でビショップ夫人は「朝鮮に寄せる最後の言葉」で朝鮮を分析し意見を述べる。
「朝鮮は日本から、使い方を知らない独立という贈りものを受け取った」ビショップ(バード)夫人は1904年に72歳で亡くなっている。後の日韓併合を見てはいない…。
「日本はまったく誠実に努力した。経験に欠け、しばしば乱暴、ぶっきらぼうで不必要に敵意を刺激したけれども、朝鮮を従属させる意図は持っていないばかりかむしろ朝鮮の保護者、朝鮮独立の保証人の役割を果たそうとしている、と、私は信じてる。」
「もしロシアが予想されるようなそんな穏やかな展開に満足しないで、朝鮮に攻撃的な企てを何か表明したとしても日本は、その車輪に歯止めを置ける程十分強力である!と言って差し支えない。しかしながら朝鮮は自立できない。もし共同保護国が整えられない程事態がひどく難しければ、朝鮮は、日本かロシアの孰れかの後見の下にいなくてはなるまい。」巻末解説を書いている在日朝鮮人の方はこのへんが日本軍部と同じ!と呆れ憤っているようだが、当時の情勢では日本もロシアも英国もアメリカも同じ考えだったろうと思う。
近年、朝鮮など手を差し伸べずそのまま放置して自壊にまかせておくんだった…という意見主張が日本のネット上にめだつようになっている。福沢諭吉の教えの影響?それともこういった本が広く読まれるようになったから…なのか?
「日本奥地紀行」の自由さとぶっちゃけ加減の面白さから「朝鮮奥地紀行」も手に取ったものの、その内容は最新朝鮮事情と知られざる内陸部の様子を知らせたいというジャーナリズム。正直、一部を除いて読んでいて面白いものではなかった。
イザベラ・バードにはハワイや中国の旅行記も翻訳され出版されているが、もう読まないかもしれないw
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