2024年11月9日土曜日

吉村昭「虹の翼」(1983)

吉村昭「虹の翼」を文春文庫新装版(2012)で読む。500Pを越える長編。
1978年に京都新聞に「茜色の雲」として連載後、1980年に「虹の翼」と改題され単行本化。
6年前に108円で購入しておいた積読本で読む。

二宮忠八(1866-1936)の生涯を描いた伝記だが、自分はこの人を江戸時代の人だと勘違いしていた。それは新田次郎の短編小説「鳥人伝」で読んだ浮田幸吉(1757-1847)と混同していたかららしい。

二宮忠八は慶応二年、伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町に生れる。
(ちなみに二宮忠八はH.G.ウェルズと同じ年生まれの同学年)
裕福な商人だったのだが二人の不良兄のせいで家は没落し一家離散。忠八は呉服商で子守などしながら凧をつくってわずかな稼ぎ。しかし勉強ができて聡明。やがて当時最先端産業だった写真館で働くようになる。惜しまれつつ写真館を辞め今度は伯父の薬種商の仕事を手伝う。のれん分けさせてもらえるかも。
だが、八幡浜浦に戻って今度は測量士を手伝う。また凧づくり。忠八のつくる凧は八幡浜浦の名物。忠八は変わり者呼ばわりされていることを知っている。もう凧づくりは止めよう。

徴兵適齢に達していた忠八は適性検査を経て軍隊へ。薬種商で働いていた経験を買われて薬剤部へ。
樅ノ木峠でカラスが滑空する様子を見てひらめいた忠八は以後「飛行器」を夢見る。薬剤師の資格を目指しつつ、「玉虫」の形態をヒントに飛行器の研究を続ける。固定翼にゴム管動力のプロペラ模型飛行器を試作。新婚だった夫人にも秘密を明かす。

日清戦争中、死を意識し始める。死んだらこの研究は埋もれてしまう。勇気を奮って上司に上申書。今はまだ動力の問題があるけど、こいつは必ず飛ぶ!飛行器があれば戦況に有利!

だが軍務多忙を理由に長岡外史大佐と大島義昌旅団長から却下。やっぱり誰も空を飛ぶなんて信じないし。
平壌攻防戦時に赤痢で死にかけるも奇跡的に回復。内地へ戻り療養。

病から回復し精力的に医薬品を配分する仕事に精を出す一方、飛行器開発への情熱は冷めない。方々へ駆け合うのだが、誰も空飛ぶ機械に関心を示さない。(そのころオットー・リリエンタールがグライダーで有人滑空に成功していた)
野戦病院務めでは戦功もなく出世も見込めない忠八は軍に絶望。

大日本製薬株式会社に入社。有能社員でどんどん昇給。どんどん出世。大阪と東京の薬業界で販路を広げるべく奔走し多忙。
会社にとって必要不可欠な人物。重役になっていく。
その間に欧米ではツェペリン飛行船が事故を起こしたりして気球はダメだなという雰囲気。

身を立ててお金を貯めて飛行器研究をと焦る日々。だがついにその日がやってくる。ライト兄弟の飛行機を新聞で知る。忠八は悔し涙と悲嘆。
以後、日本も飛行機の重要性に気づく。航空機の試験飛行のニュース記事と記録の記述が続く。
忠八は製薬の仕事に打ち込む。取締役として監督不行き届きの不正経理問題発覚で引責辞任。

同じ愛媛県出身の白川義則中将の知己を得る。忠八は軍隊時代に飛行器研究の上申をしたが却下されたことを告白。
実は忠八の研究は軍で知られていた。以後、急速に日本人の間で二宮忠八という研究者がいたことが知られて行く。あの恨んでも恨み切れない長岡外史から長い長い謝罪と贖罪の手紙も来た。戦争中の軍務で忙しかった長岡は上申書を棄てたことすら覚えていなかったという。

もしも長岡に時代の先を見る目があれば、最初の飛行機の発明者の栄誉は日本人になっていた可能性はかなり高かった。
いちばん寂しく虚しい苦悩をしたのは忠八だが、薬業界でそれなりに成功者だった。自分は二宮忠八をてっきりプロ航空機研究者だと思ってたので薬業が本業だったとは意外だった。

もし飛行機を発明したのが忠八だったら、その後の膨大な飛行機事故犠牲者に心を痛めていたに違いない。忠八は飛行機死亡事故の記録もずっと記していた。

この本も吉村昭の筆致は淡々と飛行機誕生前夜と試験飛行と忠八の生涯年表を記録している。

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